第8話 怠惰はいずれ死をもいざなう
誰しもが苦痛よりも幸福を望むように、あっけなく死を迎えるのではなく、劇的な死を欲する人は少なくない。
『死は救済』
一体誰が言ったのだろうか。深淵で意味深長なのかもしれないが、平凡に捉えると、およそこの世は不条理且つ非人道的な事に溢れ、恐怖・終末の象徴たる死をあえて自身から享受することは、むしろ恒久なる静謐を得る事に等しい。
キリスト教や日常倫理においても、自殺は避けるべきものであり、あまつさえ、日本国民はそれを止める義務がある。さもなければ自殺幇助として罰則が課せられる。
「お願い!待って!直樹さん!!」
健気にもまいは僕を止めようとしてくれている。これで刑務所送りになることはあるまい。
「まい!短い間だったけどな!僕はまいの事が大好きだった!!まいの辛さはな!僕の死を代償に!もう、感じないようになるんだぞ!!!」
「やだ!辛くても良い!お願い、死なないで!!」
そろそろゴール地点だ。オウンゴールをあえてすることで、相手チームに点数を与える。こう表現しても、相変わらず伝わらないかな。
「直樹さーん!!!!」
まいの叫びに共鳴するが如く、海は荒れ狂う。
結論から言おう、僕は死ねなかった。
なぜ?ビビったから?
いや、確かに終わらせるつもりだった。僕に原因がない以上、外部的理由だ。
泣きわめくまいは僕の足を掴んでいた。
追い付けないものと高をくくっていたのが裏目に出た。またもや三文芝居のような結果が僕の自尊心を深くえぐる。日頃の運動不足はこんなところで、まさしく足を引っ張った。
情けなさこの上なく、僕はまいに勝るとも劣らぬくらいに泣いた。ホント、ダサいな……
もはやタクシーに乗る金はなく、駅まで歩くことを余儀なくされる。
まいは目を赤く腫らしつつ、僕の腕に抱きついている。
「直樹さんのバカ……」
なんだか初めてまいに怒られた気がする。
「直樹さんは本当のおバカさんです。でも私もバカでした。ごめんなさい」
ぺこりと頭を下げ、ようやく、はにかむように笑顔をみせる。これで良かったのかもしれない。
「もうこの腕は離しません」
妙な決意を表明したのと時を同じくして、駅につく。車内でこうもくっつかれるのは正直恥ずかしいが、離れそうにない。そりゃそうだ。離せば今にも列車に飛び込むかもしれない男を、そうやすやすと自由に出来るほど、世紀末ではない。
家に着いた頃にはもう空に太陽は昇っていなかった。何も言わずに僕らは同じ家へと向かっていた。帰る場所がそこしかないのだ。それが今は心地好い。
二人だけの世界の完成だ。
あの時、僕らの世間体は死んだのだ。あの崖を走り抜き、鉛のようにどこまでも黒く冷たいあの大海原に、僕らは身を委ね、この世を去った。今、古びたアパートへ向かう僕らはあの僕らとは違う存在なのだ。
「直樹さん」
そう語りかける彼女の瞳は、以前の彼女のどの瞬間よりも美しかった。
僕らは生まれ変わったのだ。
非日常のその先にある超俗の境地を体験したからこそ、僕らは今、手を繋いでいる。
ルサンチマンを脱却し、超人となったのだ。永劫回帰という運命の歯車でさえも、僕らに作用を及ぼす事は出来なくなった。
永遠の別れと永遠の束縛を同時に引き起こすのが自殺。とりわけ心中はその効果が強力だ。
もうなんだって構わない。僕らは一度死んだことによって、世間を気にする必要性はなくなった。もっと重要なのは、ずっと彼女と、中野まいと月明かりに照らされながら微笑みあえる、今この瞬間があるということだ。
次なる死が二人を別つまで、僕は彼女に依存する。
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