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 毎日ときめくことも、珍しいこともない日常に再び引き戻された。最初はめちゃくちゃ辛かったけれど、その辛さもだんだんわたしの中から存在感がなくなっていって、少しずつ粉々になって消し飛んで行った。もともと知らなかった誠司さんというひとがわたしの中で大きくなりすぎていただけで、わたしが彼を知っていた時間よりも、知らなかった時間の方が圧倒的に長いから、すぐになんともなくなる。きっと。だけど、どうして彼の存在だけが、わたしの胸を射ったのか。そういうことはいまは考えないようにしていた。


 ベルトコンベアの規則正しい音が心地よかった。わたしもこんな風に一糸乱れぬ生き方がしたい。人間として、女として生きるのが難しいなら機械になりたい。


 死んでしまいたいとは決して思わなかったけれど死んでしまいそうだった。そういうのが大体一ヶ月くらい続いた二月のある日に誠司さんから「来週の木曜日に会いましょう」と連絡が来た。以前だったら飛び上がるほど嬉しかったのに少しだけ億劫だった。そう思いながらも約束を取り付けた。誠司さんに会えることが決まっても、こころは萎れたままだった。




 誠司さんの友達のインディーズバンドのワンマンライヴに行くことになり、渋谷の道玄坂のライヴハウスの前で待ち合わせた。ギリギリの精神力で、なんとか彼に見せられる格好で待った。いつも待ち合わせには早くついてしまう。


 開演時間の十五分前だったからライヴハウスの前にひとだかりはなく、十分前に誠司さんが来た。


「ごめんね、また待たせちゃって」


「いえ、大丈夫です」


 誠司さんは短い青色のコートを着ていた。ジャケットよりも彼に似合っているし、こちらのほうが好みだ。


 誠司さんがチケットをくれて、代金を払うと言っても断られた。


 中に入ると客は七割くらいしか入っていなくて、観やすくてよかったけれど、バンド的には有難くない状況だと思った。


 十九時になり、会場が暗転し、曲が始まった。三曲連続で演奏され客はやや盛り上がっていたが、自分には合わない。爽やかなギターロックだったけれど、歌詞も曲もありがちで、退屈だった。


「出ようか?」


「え、いいんですか」


「うん。ライヴに来たということは事実だから」


 誠司さんは先陣切ってライヴハウスを出た。


「ちょっと歩くけど、一緒に行きたい場所があるんだ。いいかな?」


「はい」


 わたしは誠司さんに従って、センター街を通って、スクランブル交差点を抜け、渋谷ヒカリエの中に入った。どこを歩いてもひとがまとわりついてくる感じがするし、いろんな匂いがする。


 十一階にのぼるとガラス張りになっていて、渋谷の街が一望できた。行き交うひとたちが、本物に思えないくらい小さくて何かの映像を観ているような気分になった。


「すごい。初めて来ました」


「上の階の劇場に行くとき、気付いたんだ」


 夜なのに渋谷の街はいろんな色の光が散らばっていて、渋谷の空は確かに明るいのだとわかった。街を歩いていると歩きづらいとかいろんな匂いがするとかそういうことしか感じられないけれど、綺麗だと思った。


「結構ここ、好きなんだ。俺、人ごみってあまり好きじゃないんだけどこうやって見るとみんなそれぞれ目的があって行動してるんだなってわかるし。どういうひとなのかなって想像するの面白いじゃん」


 窓を見ている誠司さんの横顔を見て、ようやく気持ちが落ち着いた。


「たとえばあのふたり。ただの夫婦に見えて実はマフィアなんじゃないかとか。あの派手な女のひとは田舎を出て弟や妹たちの生活を助けてるんじゃないかとか。いろんなひとが、いるよね」


 やっぱり誠司さんのことが好きだ。だけど、わたしには「好き」という感情以上のものは、ない。


「織ちゃん」


 誠司さんは街のひとを見て妄想するのをやめてわたしを見た。


「俺は、織ちゃんのことが好きだよ」


 どんな顔をして、どんなことばを返せばいいのかわからなくて、多分変な顔をしていたと思う。


「織ちゃんと一緒にいるとすごい嬉しいし、織ちゃんの持ってることばが好き。この前電話をもらってから、俺ずっと考えてたんだけど」


 誠司さんは目だけで上を見て、瞬きをして、決意したように大きく息を吐いた。


「俺は、織ちゃんがしたくないことを、したいと思うほうの人間だと思う」


 こころが一気に冷えた。誠司さんというひとに冷めたのではなく、体温が一気に下がった。この場から逃げたい。できることならこのまま消えたい。


「でも、織ちゃんがしたくないのに無理矢理したいとは思わないよ」


「え……」


「まだ、わかんないことだらけだけど。どうしたらいいのか、これからどうなるのか、わからないけれど。ほかのひとがどう、とかじゃなくてさ、俺たちだけの方法を見つけだせばいいんじゃないかな」


 わたしは誠司さんに背を向けた。背を向けて顔を両手で覆って泣いた。そのまましゃがみこんでしまった。


 誠司さんはわたしの前に回り、一緒にしゃがみこんでわたしの気が済むまで待ってくれた。


 営業終了時間まで街を見てふたりでずっと妄想をしていた。楽しかった。ほかのひとと同じことをやっても面白くなかったかもしれないけれど、誠司さんなら安心して言いたいことが言えたし、思い切り笑えた。


 ヒカリエを出て、わたしは誠司さんの後ろを歩いた。


「誠司さん」


「ん?」


「好きですよ。会えない日は、死んでしまいそうになるくらい好きです」


 わたしがそう言うと誠司さんは声をあげて笑った。


「会えない日も生きていてね。死んでしまったら、会えなくなっちゃうから」


「はい」


 誠司さんはズボンで手を拭いて手を差し出した。


「触れても、いいかな」


「もちろんです」


 わたしも手を出して、ゆっくりと握ってくれた。誠司さんの大きな手の感触とか、温かさから血が通っているということがわかって、わたしと同じように生きているんだということを改めて感じた。


 どんな風であってもわたしたちは単なる人間という生き物だ。


 わたしたちも渋谷の街の背景のひとつに溶け込んだ。わたしたちを見て誰かも妄想するのかもしれない。できれば、幸福なふたりだと、誰かから見てもそう思われていたら、いいな。

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あのひとに会えない日は死んでしまいそうになる 霜月ミツカ @room1103

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