鬼蜘蛛の血脈

下村アンダーソン

鬼蜘蛛の血脈

 十二番目の生娘が死んで、残された生贄は私ひとりになった。

 原因はさまざまだ。入って数日目に起きた大きな崩落に巻き込まれた者が、たぶんいちばん多かった。あれで半分が死んで、残りは少しずつ欠けていった。飢えや渇きに耐え兼ねた者。足を滑らせて落ちていった者。正気を失い、壁に自ら頭を打ち付けた者。

 蜘蛛の毒で死んだのは二人だけだった。眠っている最中に足の裏を噛まれ、二度と目を覚まさなかったのがひとり。もうひとりはずっと悲惨で、うっかり子蜘蛛を踏みつけにしたのだ。瞬く間に押し寄せてきた群れに呑み込まれ、真っ黒になって死んだ。悲鳴すらくぐもって聞こえたから、毒が回るより先に呼吸が出来なくなったのかもしれない。

 ともかく送り込まれた生娘はそうやって順々に消えて、生贄の役割を果たせるのは私だけになってしまった。くだらない死に方をするわけにはいかない。村を救えるのは、もう私しかいないのだ。

「おいでください、土神さま。どうか私を召し上がって、怒りを鎮めてください」

 小さな声で繰り返しながら、こちらが奥だろうと思うほうへ歩む。

 光が届かなくなって、もうずいぶん経つ。視界はほとんどない。岩壁に手を付き、そろそろと足を進めていく。深い深い洞窟の中で、目は最初にその役割を失った。闇に順応はしているのだろうが、得られる情報はあまりにも乏しい。耳、鼻、手触り、そして勘――私を何度となく生かしてきたのは、むしろそういった感覚だった。目ばかり頼りにした娘たちは、例外なく死んだ。

「土神さま、土神さま、どうぞおいでください。私はここにおります」

 穴の内側の死は十二だが、外の死は数えきれない。こうしている間にも皆が渇き、干乾びていく。

「水を――水をお返しください。私を差し上げますので、どうぞお返しください」

 なんの予兆もなく、足が柔らかなものに触れた。分厚い毛の感触。蠢き。

 蜘蛛だ、と直感したときには遅かった。針を突き刺されるような感覚は一瞬で、直後には寒気が来た。背筋が、腰骨が震え、それが右足の付け根で痺れに変わった。電流のように足首まで到達して、痛みになった。

 激痛になった。声が咽の奥から洩れ出る。岩でかろうじて背を支え、蜘蛛の群れの真ん中に崩れ落ちるのを防ごうとした。感覚を保てたのはそこまでだった。

 姿勢を立てなおそうにも、痛み以外はもはや何もなかった。自分がまだ立てているのか、あるいは這いずっているのか、どちらに向かっているのか、まるで分からない。

 やがて視界が白んできた。色を意識するのは本当に久しぶりだった。死はこうした乳白色をしているのかと、苦悶の底でぼんやりと思った。


 目を開けた。

 同時に、眼前にふたつの光が浮かんでいるのに気付いた。悲鳴を上げて逃げ出そうとしたが、手も足もほとんど動きはしなかった。痺れ。鈍い痛み。自分が仰向けに寝かされていることをようやく把握した。

「目を覚ましたか」

 と女の声が言った。色合いの異なるふたつの光は――双眸だ。

 女の姿を捉えられるようになってなお、私は現実を疑っていた。これは死の間際に見る夢なのではないかと思った。

「おまえもまた蜘蛛の毒から生き延びたのだ。運がよかったのか、あるいは体質か」

「あなたは」

 と、いまだよく動かない口で問いかけた。相手はそれで察したらしく、

「おまえと同じだ。土神の贄だよ。この洞穴に送り込まれてもう、ずいぶんと時間が経ってしまったようだが」

 人間だった頃の名は忘れた、と女は言った。片方の目だけが赤いので、私は彼女を〈赤眼〉と呼ぶことにした。私のことは十三番で構わないと告げたのだが、〈赤眼〉はそれを了承しなかった。

「生贄が地上での名を、穴に入る際に捨て去るのを、あなたも知っているでしょう?」

「その決まりがまだ残っていたか。では私が勝手に名付けよう。私が〈赤眼〉ならおまえは〈銀眼〉だ」

 自分の目がそう見えるということを、私は生まれて初めて知った。地上では誰も私を直視しなかった――生贄になるべくして産み落とされた私を。


「土神などというものは存在しない。私はさんざん探し回ったのだ。そう、食われるべくしてな。しかしどれだけ経っても、そいつは姿を現さない。次から次へと新しい娘たちが送り込まれてきては、すぐに死ぬ。こんな場所まで辿り着いたのはおまえが初めてだ」

「でも――生贄は」

「無駄死にだよ。そう結論せざるを得ない。水は枯れるときは枯れ、満ちるときは満ちる。自然の成り行きだ。どれだけ生娘を送り込んだところで、何の意味もない」

 そう〈赤眼〉は断じるばかりで、土神や生贄の話はしたがらなかった。代わり、洞窟の中で生き延びるすべを私に教え込もうとした。僅かに生える植物、石の纏う水分、口にしても安全な生き物、歩き方、眠り方。

「すぐにも出ていきたいだろうが、ここは奥地だ。生き方を知らねば出口には辿り着けない」

「〈赤眼〉がついてきてくれればいいんじゃないの」

「私はここを出る気はない。送っては行かないから、自分の判断で出発しろ。ただし途中で死んでも私は知らないぞ」

 不安のせいか、怯えのせいか、私は〈赤眼〉のもとを離れずに暮らした。生贄として、死を覚悟して洞穴に入ってきたというのに、何とも不思議なことだ。土神が存在しない、少なくとも〈赤眼〉にさえ見つけることができなかったという事実が、私の心を塗り替えてしまったのだと思う。私は死の理由を失くした。十二人の娘たちだって、本当は死ぬ必要などなかったのだろう。

 ある晩、傍らで眠っていた〈赤眼〉の呻き声で私は目を覚ました。休息のときでさえ、蜘蛛たちを刺激しないよう細心の注意を払うこと――彼女の教えてくれたことだ。私は慌てて小さな合図を送った。空気が幽かに震えた程度のそれを、〈赤眼〉はすぐに受け取った。

「済まなかった。おまえまで危険に晒した」

「いいよ。それより〈赤眼〉、すごく悪い夢を見てるみたいだったよ」

「おまえも、初めのうちはしょっちゅう魘されていた。私はそのたびに冷や冷やした」

 私は頷いて、

「一緒に洞穴に来た子たちのことをね、夢に見ていたの。みんなで〈赤眼〉に会えたらよかったのに。そうしたら誰も死なずに済んだ」

「仲間は何人いた」

「私を入れて十三人」

 そうか、と〈赤眼〉は小さな声でつぶやき、それから吐息して、

「私のときはもっと大所帯だった。全員を覚えているわけではない。親しかった者のことでさえ、今までずっと忘れていた。おまえがやってくるまで、こんな感情を覚えたことはなかった」

 言葉を探したが、何も浮かびはしなかった。仲間を失った〈赤眼〉は、彼女なりに折り合いをつけて生存のすべを模索したのだろう。彼女ひとりなら、過去を思い起こすこともきっとなかった。私と出会ったせいで、記憶の封が解かれてしまったのだ。

「――ごめんなさい」

「気にするな。おまえには何の咎もない」

 ねえ〈赤眼〉、と私は切り出した。

「この洞窟に、もう誰も立ち入れないようにしようよ。新しい生贄が入ってこられないように、塞いじゃおう。それで私たちだけで暮らすの」

 短い沈黙のあと、〈赤眼〉はぽつりと、

「おまえはいずれ出ていくものと思っていた」

「出ていかない。傍にいるよ。生贄は、私たちで最後にしよう。死んでしまった皆のために祈りながら、この洞窟で死ぬまで一緒にいよう」

 私は〈赤眼〉を見つめた。やがてその双眸が強い光を宿した。


 私たちは地上を目指した――私は数か月ぶりに、〈赤眼〉はきっと十数年ぶりに。

 死ぬ者はほとんど、洞窟に入ってすぐに死ぬ。奥の通路を封鎖するのでは意味がない。私たちが塞ぐべき場所は、出入り口ただ一か所だ。

 慎重に、しかし迅速に、私たちは進んだ。洞窟の歩き方は体に染みついている。

 決行すればもう二度と、光は拝めなくなる。海も、山も、花々も、空も、すべてが人生から消え失せる。それでも構わないのか。

 構わない。〈赤眼〉の隣にいられればいい。

 視線の先に、小さな光の一点が見えはじめた。近づくにつれて大きく、強く、やがては目を突き刺すほどの閃光に変わった。

 風が前髪を揺らす。生涯で最後の風だ。

 揃って地上へとまろび出た。何もかもが洞窟の内側とは違いすぎ、私たちの感覚はいっせいに悲鳴を上げはじめた。洪水のように押し寄せる情報を処理しきれない。私たちは立ち竦み、一瞬、何も分からなくなった。

「――土神だ」

 どこからか響いたその声を、私は混濁のさなかで聞いていた。

「忌まわしい土神が遂に姿を現したぞ! この機を逃すな、殺せ!」

 武器を携えた男たちが〈赤眼〉に殺到するのを見た。私の同胞だった何人目かの生贄が蜘蛛の群れに呑み込まれたように、〈赤眼〉の姿もまたあっという間に覆い隠されて、視界から失せる。

「〈赤眼〉、〈赤眼〉」

 ようやく私は声の限りに叫んで駆け出した。男たちを掻き分ける。四方八方から滅多打ちにされたが、止まるわけにはいかなかった。倒れ伏した〈赤眼〉の足を掴み、力の限り引っ張る。一瞬の隙をついてその場を脱した。

 洞窟に引きずり込んだ。遠ざかりつつある光の中で、男たちが逡巡しているのが分かった。一歩立ち入れば死が待ち受けている――彼らは重々承知なのだ。

「――〈銀眼〉」

 懐かしい暗闇の中、〈赤眼〉が幽かな声で発した。唇の端から血を零しているのが、目に見えずとも知覚できる。

「喋らないで。いま、傷を縛るから。大丈夫。私、ぜんぶ分かるから」

 ふふ、と〈赤眼〉は笑い、それから静かにかぶりを振った。

「もういい。私は、ずいぶんと生きた。おまえにも出会えた。それで満足だ」

「よくない! 黙ってて」

〈赤眼〉の震える手が、自身の片目に触れた。赤い光を放つほうの目に。

「これは、地上からの最後の土産だ。洞窟の中では何の役にも立たないが、外で売ればまとまった金になるだろう。おまえが出ていくとき、くれてやろうと思っていた」

 ほっそりとした指先が、赤い石を挟んで掲げている。埋め込まれていた義眼――宝玉を。

「受け取れ。おまえは生きろ」

 光が手の中に落ちてきた。すでに動かなくなった〈赤眼〉は、小さな微笑みを湛えていた。

 湛えていることが分かった。しかし私の銀色の目は、それを見てはいなかった。

 義眼を失ったあとの、ぽっかりと虚ろになった穴を見ていた。黒々とした闇を。

 流れ出した〈赤眼〉の血が、あたりを濡らしている。しゅわしゅわと揮発するような、何かが焼け焦げるような音がしていた。

 ああ、そうなのか、と思う。〈赤眼〉も私と同様、蜘蛛の毒から生還した人間だったのだ。私たちの体内を巡っているのは、もう人間の血ではない。

 それは蜘蛛の血だ。生命を奪う猛毒。

「生きるよ、〈赤眼〉。私は死なない。誰にも私を殺せはしない」

 穴の淵にそっと口づけをしてから、私は立ち上がった。

 人間たちの信じた土神に、私がなってやろう。穴蔵に潜ったまま、おとなしく待つような真似はしない。新たな土神は、地上を黒々たる闇に染め変えるだろう。生贄も、そうでない者も区別しない。あらゆる人間を食い尽くすまで、決して満たされることはない。蠢く者はなにひとつ、容赦するまい。

 銀色の目の片方を抉り出し、代わりに赤い宝玉を嵌めた。鮮烈で甘美な苦痛。

 私の名は、鬼蜘蛛。

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鬼蜘蛛の血脈 下村アンダーソン @simonmoulin

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