柔らかな嫉妬
「真奈海すまん。別に盗み聞きを……」
「別にいいよ。ユーイチなら」
真奈海の顔は穏やかだった。特に怒ってるわけでも笑ってるわけでもない。
僕が濁した言葉が言い訳でしかないことは、はっきりと自分でもわかっていた。どう考えたって盗み聞きだった。だけど僕は真奈海に謝ることしかできない。それは今のことだけじゃなくて、過去の自分のことについても。ずっと真奈海を救ってあげられなかったことも、全部含めて。
だけど真奈海は小さく微笑んで、僕を咎めたりはしてこなかった。
「真奈海……?」
「美歌の前だもん。ここでユーイチのせいにしたら、また美歌に怒られる」
僕が弁解する間もなく……僕の言葉を遮るように、真奈海はそう返してくる。柔らかい声で、恨みとか妬みとかそういう負の感情がどこにも含まれていなくて、僕の心をそっと包み込んできた。
「わたしね。美歌にユーイチを取られるのが本当に怖かった」
……いや、妬みが全く無いなんてのは、嘘なのかもしれない。
「別に僕と美歌はそういう関係じゃねーよ」
「嘘ばっかり。いつの間にか美歌のこと、名前で呼んでたし」
「いや、それとこれとは……」
「てかユーイチ、わたしより先に美歌のこと『美歌』って呼んでなかった?」
「…………」
返す言葉なんてどこにもない。ただ言わせてもらうと、その理由については恐らく真奈海の勘違いで、ちゃんと別にある。そもそも美歌の苗字が『霧ヶ峰』と微妙に長いばかりに、毎回『霧ヶ峰さん』と呼ぶのは少々めんどくささを感じたからだ。かといえ『美歌さん』だとどこか仰々しいし、同じクラスメイトだから『美歌先輩』などと呼ぶわけにもいかない。その結果、いつしか『美歌』と呼ぶようになったまでのこと。
……と、思う。
「美歌ってかわいいもんね〜。わたしの告白を断る材料としてはこの上ない存在だよ〜?」
「いやだから僕が真奈海を振ったのはそういう話じゃなくて……」
「じゃあ〜、どういう話よ〜?」
「…………」
そもそも僕は真奈海の告白を『断った』わけではなくて、『答えなかった』だけではないだろうか。……というのは完全な言い訳。弁解の余地などやはりないかもしれない。
「それに学園祭のときだってさ、ユーイチは美歌と……」
「…………」
いや、もはや弁解の余地とかそういうのを全部すっ飛ばして、完全に僕の黒だろう。一体僕はどれだけ真奈海を傷つけていたのだろう。真奈海に謝る以前の問題で、全てをごまかしきれない程度には、僕は追い込まれてしまっていた。
だけど真奈海は最後に言葉を濁した。学園祭の、後夜祭での出来事。真奈海の言葉を奪うほどにはショックを与えていたのかもしれない。たとえそれが、ここで眠る美歌のしたことでなかったとしても。
あるいは……。
「だって、美歌はいつも本気だったんだもん」
後夜祭のあの出来事。きっかけは確かにここで眠る美歌ではない。
でも、問題はその後だ。あの瞬間、美歌はするりと入れ替わっていたのだから。
「アイドルとしてだけではなくて、女の子としても、いつもわたしに対して本気だった」
そのことが真奈海に、脅威を与えていた……?
「だからわたしは美歌が怖くて……ひょっとしたら心の奥のどこかで、美歌にこうしてずっと眠っててほしいなんて、すっごくくだらないことを考えてるのかもしれないな……」
どこまで本気なのかわからない真奈海の言葉は、薔薇の棘のようにちくりと胸を突き刺してくる。僕はそんな真奈海のとんでも話に反論することさえできなくて、思わず足ががくっと震えてしまった。真奈海の顔は薄っすらと笑っている。でも、本気で笑っているわけではない。真奈海の言葉と言葉の隙間にしんとした沈黙があって、その一秒一秒の時間がいつもより長く感じられた。
「……でもね。こんな風にも言えるの」
そんな声よりも、真奈海の唇が、僕にその言葉を伝えてくる。
「ユーイチのことが大好きな美歌がいたから、こんなにも不器用な恋のライバルがいたから、わたしもアイドルとして頑張れたのかな……って」
真奈海の声は本当に出ていたのだろうか。それは音として伝わってきたわけでなく、空気として僕の身体に染み込んできた。僕の皮膚を伝わって、最後は胸の真ん中でぽつりと落ちる。そしてゆっくりと体内へ吸収され、血液と共に身体全体へと供給される。
「真奈海……?」
「え、なに?」
それが真奈海の本当の本音なのかもしれない。いや、間違えなくそうなのだろう。
「お前、何もかも他人のせいにしすぎじゃねーのか?」
「うん。そうかも」
真奈海はにっこりと笑っていた。綺麗で美しい顔を、僕の目に焼き付けてくる。
ずっと一人で空高く飛んでいた春日瑠海は、羽を休ませようと木の枝に止まる。その枝でひと足お先に休憩中だった未来――美歌は、真奈海にちょっかいを出し始め、そして自滅していく。真奈海はそんな美歌の姿が楽しくて、いつしか青い二匹の鳥はこれ以上ない仲間となっていた。
それまでずっと孤独だった真奈海にとって、やっと出逢えた本当の仲間。
「だって、ひとりじゃ寂しいんだもん。苦しくて、胸が痛くなるんだもん」
だけど未来は疲れてしまったのか、またしても眠りについてしまった。
残されてしまった瑠海は、しばらく止り木のない海の上を、一人で渡ろうとしている。
「ひとりで寂しくないやつなんて、どこにもいないんじゃねーか?」
でも、そんな長く険しい大海原を一人で渡る必要性なんて、どこにあるというのだろう?
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