師走に狂い始めた歯車

 カレンダーはついに一番最後のページ、十二月まで辿り着いた。

 駅前の小さなバスロータリーには小振りな印象のクリスマスイルミネーションに彩られ、寒い夜空を明るく照らし出している。その前を通る度に、僕は美歌のことを思い出していた。ミーハーな性格の美歌のことだから、たとえ物足りないイルミネーションだったとしても『わぁ〜』とか声を出して、大はしゃぎしてしまうんだろうな。


 あの修学旅行から二週間ほど経つけど、今日も美歌が目覚めることがなかった。週に二、三日は美歌の眠る都内の病院に通っている。今日も放課後に電車を乗り継いで、都内の病院へ行ってきたところだ。人が多く行き交う病院の中で、まるで美歌の眠る病室だけ、時間がぴたりと止まっているかのよう。美歌の寝顔は先日来た時と変わらないまま。宙を見上げるその美しい顔を、僕はとくとくと胸に刻みつけることしかできなかった。


 チロルハイムに帰宅すると、もう既に十九時になっていた。

 夕食の時間。ここ最近仕事で忙しいのは茜くらいなもので、真奈海の仕事はほとんど週末だけ。ダンスや歌の練習などはチロルハイムの地下スタジオでもできるから、ここ最近夕食のメニューが焼きそば、もしくはお好み焼きになってしまう確率が高くなった気がする。ようやく料理を覚えてきたばかりの美歌が不在なので、ほぼほぼ僕と糸佳と真奈海の三人で夕食担当を回していることになる。当然と言えば当然か。

 だけど今日のチロルハイムには、文香さんと父龍太の姿もあった。そして、カレーの匂いがする。人数が多いとこれが便利と言わんばかりに、糸佳特製超激辛カレーの出番だ。まぁ今日の来客はその味を知ってる人だから特に被害者も出ないだろうけど。


「真奈海先輩、そろそろいい加減にしてください!!」


 喫茶店『チロル』では、茜が真奈海を責め立てる声が響いていた。

 糸佳が一番遅れてきた僕の分のカレーを用意してくれる。もう皆はとっくにカレーを食べ始めていて、糸佳は小声で『優一くんはとっとと部屋にその学校のカバンを置いてきてすぐに着替えてきてください。カレーで制服が汚れたら大変です』などと言ってきた。僕は一旦『チロル』から追い出された形になり、ひとまず僕は管理人室で着替えることにした。再び喫茶店『チロル』に戻ってきたときには、糸佳が僕の席にカレーを運んでいた後だった。

 なお、ここ最近糸佳は、僕のことを『お兄ちゃん』と呼んでくることはまずなかった。いつからというより、修学旅行の日以来ずっと。僕は『優一くん』のままになっていたんだ。


「わたしはちゃんとやってる。茜にそんなこと言われる筋合いない!」

「そんなことない。確かに手抜きはしてないけど、あんなの春日瑠海じゃない!」


 まだ茜と真奈海の討論は続いていた。

 事の発端は今朝の朝食の時間に遡る。茜が『昨日のライブ、正直観ていられませんでした』と真奈海に言い出したんだ。ところが真奈海はその自覚が全く無かったらしく、それを真正面から反発する。二人の言い争いは正直いつものことだけど、今朝は全く収まる気配なく、ヒートアップする一方だったんだ。いつもなら真奈海の方が茜を軽くあしらって、元の鞘に収めるところなのにだ。

 それを糸佳が文香さんに報告したらしい。どうやら文香さんも思い当たるところがあったらしく、昼休みに『今晩お母さんがチロルハイムに立ち寄るそうです』と糸佳が伝えてきた。

 春日瑠海一人となってしまった『BLUE WINGS』の新たな船出はまだ始まったばかりだというのに、どうやら早速暗礁に乗り上げようとしているらしかった。


「ライブに華がないんですよ! これは一体どういうことですか!?」


 MCの脚本担当でもある茜の正直な感想。同じアイドルとしてのプロの感想でもある。


「冗談じゃない! そんなの茜の主観でしかないじゃない? なんでそんなこと茜に言われなきゃいけないのよ!!」


 こちらもアイドル春日瑠海として、プロとしての本音。女優時代からプロ意識だけは相変わらず常に高い、そんな春日真奈海の本音なのだろう。


 そんな二人の平行線となる討論を見て、事務所社長の文香さんは深く溜息を溢していた。何とも言えない顔が、文香さん自身も悩んでいることを象徴しているかのよう。社長さえもがそんな状況なため、僕や糸佳に口出しなどできるわけがない。


 実のところ、真奈海の言い分も、茜の言い分も、どちらもその通りだった。

 真奈海はちゃんとやってるし、茜の言うとおり舞台に華やかさが欠けている。

 問題は、観客の中でそれに気づいてしまう人がどれくらいいるかどうか。


「真奈海。社長として伝えたいことだけ伝えるわ」


 そんな真奈海に、ようやく文香さんが選びだした言葉は――


「『BLUE WINGS』を一時活動休止しても、私は構わないのよ……?」


 ――その少しだけ曖昧な言葉は、どちらかというと残酷であることにも違いなかった。

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