珈琲の味と仮説と検証
「それは糸佳が決めたことだから……」
「ふ〜ん。……そんなものなのかな〜?」
僕がそう答えると、白根は特に驚きもせず、淡々とした顔で返してくる。僕もどう受け止めるべきなのか、本当はわかっていないのかもしれない。それは白根も一緒なのか、実のところ白根から咎められるんじゃないかって少し思っていたけど、そういった類の反応ではなかったんだ。
「だったら、質問の内容を変えてみるね?」
「今度は何だよ……?」
ところが手のひらを返すように、白根は明るい表情で次の質問を僕にぶつけてくる。
「霧ヶ峰さんが今ここにいないこと、優一くん的にはどう思ってるのかなって?」
「美歌……?」
唐突に出てきた違う人物の名前に、僕は思わず一瞬躊躇した。
「そんなの不安に決まってるじゃんか。今度いつ目を覚ますかわからないわけだし」
「確かに不安だよね。今も都内の病院でずっと眠ったままなんでしょ?」
「ああ。京都タワーで倒れてから、今でもずっと……」
美歌が京都市内の病院に運ばれたのは、先週の金曜日のことだ。時間としてはまだ一週間も経っていない。だけどその時間はとても長く感じて、一週間以上の時間が流れている気がしている。いつになったら目を覚ますのだろう。その不安は当然僕だけではないはずだ。
「でも優一くんが感じている感情って、本当に不安ってだけなのかな?」
「それは、どういう意味だ?」
だけどそんな僕の回答を、白根は少し否定してきた。
「霧ヶ峰さんがチロルハイムからいなくなって、例えば寂しいとか、そう思うことはない?」
「そんなのもちろん寂しいって…………?」
思わず質問の回答に窮してしまう。なぜならそんなの当たり前のことだからだ。美歌が入院してから、チロルハイムから美歌の笑顔がすっぽりと消えてしまった。ガサツな天然キャラで、周囲を巻き込む力は真奈海と同等かそれ以上。そんな力を持った純白の笑顔は、僕らチロルハイムの住民をそっと温めてくれる。だけど美歌が住んでいる二〇二号室の灯りはずっと消えたままで、夜になっても明るい光が漏れてくることはない。
それが寂しいだなんて、チロルハイム住民は誰もがわかりきっている。真奈海だって茜だって、美歌の話はあまりしようとしない。それは恐らく胸の内にずっと秘めているから。今にも溢れ出しそうな感情が外に飛び出さないように、きっと心の奥深くにしまってあるんだろう。
それなのに……白根のこの質問の本当の意図は、一体なんだろう?
「その感情って、優一くんの霧ヶ峰さんに対する『寂しい』ってどれくらいなんだろ?」
質問はもう少しだけ角度が変わってきた。
「それって、結局どういう……」
「たとえば、もしそれが霧ヶ峰さんではなくて、糸佳だったとしたら?」
すると思わず僕と糸佳が顔を見合わせてしまう。糸佳の顔が少しだけ紅潮して、その瞬間慌てて僕から目を逸らせてきた。僕はその糸佳の態度を見届けてから、もう一度白根の質問の意図を探し出そうとする。
――やはり心配するに決まってる。仮に倒れたのが美歌じゃなくて糸佳だったとしても、僕は同じように心配したはずだ。寂しいとか通り越して、まずは助かってほしい。必ずそう願うはず。
「ふふっ。なるほど。やっぱし優一くんはそんな感じか」
「って、今ので何を納得したというんだよ!?」
その一部始終を見ていた白根は、どうやら何かを確信したらしい。なんだというのだ?
「それはね優一くん。もしさっきの質問が全く逆の立場だったとしたら、糸佳は多分、優一くんが考えてることとは別の回答を導き出してたってことだね」
白根の言ってることが僕にはさっぱりわからなかった。糸佳はどうなんだろ? ちなみに糸佳は相変わらず僕と目を合わせようとしない。さっき僕は糸佳に変な顔でも見せてしまったのだろうか。
「白根。一体結局、どういう意味なんだ?」
「それはほら、すぐ目の前にいる糸佳にでも聞いてみたら?」
「千里、黙ってください! それ以上言ったら絶交しますですよ!!」
半分薄ら笑いの白根に対し、糸佳はなぜかブチ切れていた。どうせ糸佳のことだから絶交なんてできっこないくせに。それについてだけは僕も白根も同意見だったようだ。白根の顔がそれを物語っている。
「やっぱし何言ってるか僕には全然わからん」
「だったら優一くんには、別の人を当てはめてみればいいんじゃないかな〜?」
まだまだぷんぷん顔の糸佳はとりあえず放っておいて、僕と白根は話を続けた。
「別の人って、誰のことだ?」
「そうだな〜。たとえば〜……」
「千里、それ以上言ったら本気で怒りますからね!!」
糸佳はまだ反発している。というより『それ以上』というのは、既に糸佳にはその言葉の続きをわかっているかのようだ。
だけど白根は躊躇する様子もなく――
「たとえばそれがもし、霧ヶ峰さんじゃなくて、春日さんだったとしたら?」
え? 真奈海?? それって結局どういう質問なんだ?
そんなの、美歌や糸佳と同じように、心配するに決まって…………
……………………。
その瞬間、僕の中に潜んでいた身体中の力が一度に抜けていくのがわかった。
恐怖。言葉にすると、そんな具合だ。
「ほんと。糸佳も優一くんもわかりやすいよね〜。まるで本当の兄妹みたい」
白根にそう言われるまで、時間が止まっていたかのようだった。僕はまるで催眠にでもかかったかのように、身動きができなかったんだ。猛烈な恐怖が僕の視界を真っ暗にさせて、思考が全て停止していた。
こんなことって……。
ふと我に返ってカウンター席を見ると、糸佳が白根をきっと睨みつけていた。白根は『冗談冗談〜』とでも返すように、糸佳をなだめようとしている。が、そんな白根の顔も、今の糸佳には全く通用しなそうだ。目の前に置かれたブレンドコーヒーの味は、しばらくやや苦めのそれとなりそうな予感する。人がせっかく淹れてやったというのに、全く……。
でもそれがどういう意味なのか、僕もようやくわかった気がしたんだ。
つまり、やはり僕は――
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