美歌が眠る本当の理由
「だけど、お姉ちゃんのチロルハイムで過ごした時間が、それは誤りだってことに気づかせてくれたんです」
美希は少しだけ、顔を上げた。赤くなった夕焼けの光が美希の瞳を照らし出して、そこから薄っすらと光る何かが湧いているように見えた。
「お姉ちゃんが糸佳さんと歌を作り、真奈海さんと歌を歌い、そして管理人さんと一緒に舞台をつくる。そんなチロルハイムでの日々が少しずつお姉ちゃんを変えていったんだって、そう思えてきたんです」
美歌の中で止まっていた時間が、ようやく少しずつだけど動き始めた。僕らも美希と同じことを思っている。美歌がいたからこそ真奈海もアイドルとして一歩先へ進めるようになったわけだし、それは糸佳や僕だって同じことだ。チロルハイムで互いに刺激しあって、互いに成長していく。そんなゆっくりとした時間の流れが、失われかけていた美歌の時間を取り戻したのかもしれない。
「うん、そうだよ。今の美歌なら、きっと大丈夫……」
弱々しい声で呟いたのは真奈海だった。美歌の最大の理解者で、誰よりも美歌を信じている。だからこそ真奈海は、そんな風に自分を言い聞かせたかったのかもしれない。たとえそれが幻想の時間であったとしても。
だけど、そうは問屋が卸さないんだ。なぜなら美歌はまだ……。
「今の話が全て真実だったとして、結局なんで美歌はまだ目を覚まさないんだ?」
僕は改めて話を振り出しに戻す。だからこそ生まれた、最初の疑問。もしここまでの美希の仮説が全て正しいとして、そしたら今の美歌に足りないものとは一体何なのだろう?
すると美希は小さく溜息を溢し、吐き出すような声で僕の質問に答えたんだ。
「お姉ちゃんは今でも自分が消えていれば……って、そう考えているようなんです」
絶望。冷たく重いその言葉は、口に出した美希本人の身体もより硬直させていた。
今でもって、どういう意味だ? 確かに五月の頃の美歌はそんな気配があった。でもそれは過去の話だったと僕は信じている。それが全部、嘘だったということか?
「そんな馬鹿な。だって僕の知ってる最近の美歌は、ずっと前向きだったじゃないか」
「私も管理人さんと同じことを思ってたこともありました。お姉ちゃんいつも真面目だし一生懸命だし、そんなのは私の思い過ごしじゃないかって考えたことも、もちろん何度もあります!」
美希は僕に反発するように、やはり僕と同じ考えを披露する。
「だけど、それでは辻褄が合わないんですよ……」
それでもと、美希は最後には僕の言葉をきっぱり否定してきたんだ。
「五月に私がチロルハイムでお世話になった時、お姉ちゃん言ってたんです。『事故の直後、父さんと母さんが自分の目の前で息をしなくなる夢を見た』って」
「夢……?」
「そうです。目の前で父と母がこの世から消えていなくなってしまう、そんな恐ろしい夢だったって。お姉ちゃん震えながら、その話をしたんですよ……」
自分の両親がすっと消えていなくなってしまう。悪夢だ。僕は自分の母親が亡くなった時の自分を思い出し、突然出てきたその話を受け止めきれなくなってしまう。
「私も両親が亡くなり、お姉ちゃんまでいなくなってしまったその時のことを思い出しながら、ただただ聞いてました。でもよくよく考えると、それってどこかおかしな話なんです」
「え。どうして……?」
そう聞き返したのは真奈海だった。辛い話の流れに、僕と糸佳はその場で動けなくなってしまったから。恐らく糸佳も、僕や美希と同じように……。
「つまりお姉ちゃん、事故直後はちゃんと大脳が機能していたんじゃないかって」
大脳―― その単語を聞かされた時、僕は五月に聞いた植物状態の話を思い返していた。
美歌は事故のショックから、いわゆる植物状態という症状に陥った。大脳が停止してしまい、考えること、判断すること、それらまとめて感情などが全て失われてしまったというものだ。脳死と違うのは、自ら呼吸することだけはできるため、回復する見込みがあるということ。あくまで可能性の話でしかないけれど。
ただしそうだとすると美希の言うとおりで、辻褄が合わない箇所がひとつある。
「それって、まさか……」
美歌が植物状態に陥ったのは、交通事故による身体のダメージからではない……?
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