夜の桂川に流れる真奈海の笑み

 今宵は、どうしてこんな話になってしまったのだろう。

 最初、真奈海は僕を励ますつもりだったのかもしれない。糸佳がチロルハイムを出ていくと、話はそこから始まって、糸佳は『美歌ちゃんとちゃんと向き合いなさい』とまるで遺言のようなものを言い残した。どう受け止めてよいのかわからないまま、宿のお風呂の前で、僕は真奈海と出会う。そんな真奈海に何もかも見抜かれ、僕は真奈海に糸佳のことを話し、次に美歌のことを話し……

 真奈海の態度が豹変したのは、僕が美歌の話をしたときからだった。


 真奈海は僕の半纏の中で、小さな子猫のように丸くなっていた。


「だから、いつもひたすらに前向きな美歌の魅力とはベクトルが全然異なってるし、それって比較する必要なんてどこにもないんじゃないかって」


 僕の左肩に身体の体重を預けながら、真奈海はきょとんとした顔で僕の方を見上げている。一瞬何を考えているのか、僕にも真奈海本人にもわからなかったんじゃないかって、そう思える程度に不思議な顔で僕の眼差しを見つめていた。その表情はここにいるのが春日瑠海だという事実を忘れさせてくれそうだった。


 春日瑠海と春日真奈海。僕にとってこの二人の女の子はいつも対称的で、いつの間にか別々の女の子になってしまった気がした。真奈海は美歌みたいに二重人格というわけではない。どちらも真奈海であるはずなのに、どちらかは真奈海じゃないんだ。


「……ねぇ?」

「ん、どうした?」


 真奈海はほんの少しだけ元気を取り戻した声で、僕に尋ねてくる。


「これもユーイチが美歌のこと向き合うきっかけになったかな?」

「え……?」


 そして、僕をからかうような顔でこんなことを言ってくるんだ。いつもの調子に乗った時の真奈海。僕を試しているかのようで、それでいて真奈海本人も自分自身を試している顔。強気な態度で、その裏側には小さな子供のような甘えた顔がある。だけどそれらを全部包み隠そうとしながら僕に触れてくる、そんな真奈海の顔。

 それは僕がよく知ってる、真奈海の顔だ。


「だって糸佳ちゃんに、美歌と真剣に向き合えって言われたんでしょ?」

「あ、ああ……」

「ユーイチが美歌とわたしを比較することで、美歌の凄さにちゃんと向き合えるもんね」

「いや、それとこれとは……」

「わたしと違って、美歌は裏も表もなくて、いつもひたすらに前向きだよ?」

「それは単に美歌が不器用なだけだろ」


 そう言うと真奈海はぷっと吹き出した。


「糸佳ちゃんの言うところの『美歌を選んだ理由』をユーイチくんは見つけられたかな?」


 真奈海は僕を試す時、必ずと言ってよいほど『くん』付けで呼んでくるんだ。どうしようもないほど厄介で、どうしようもないほど面倒くさくて、どうしようもないほどずる賢い、そんな本物の女子高生のように迫ってくる。いや、もちろん真奈海だって正真正銘の女子高生だ。だけど大人だって手玉に取るくらいの器用さを持っていて、それを常に振りかざしながら僕を常に試してくるんだよな。

 そんな真奈海の顔に、僕はほんの少し安心したんだ。


 ……いや、でもちょっと待てよ?


「おい真奈海。僕はそこまで話したっけ?」


 すると真奈海は溜め込んでいた笑みを全て吐き出すように笑い始めた。桂川の流れの音を全てかき消してしまうんじゃないかって、それくらいの笑みを溢しながら。僕はそれを見ながらもう一度真奈海との会話を振り返ってみる。確かに『美歌と向き合えと糸佳に言われた』ところまでは話したが、それ以上のことを話した記憶はない。


「ほんと、糸佳ちゃんもユーイチも、どっちもどっちだよね〜」

「…………」


 それが真奈海の回答だった。どうやら僕は完全に真奈海にはめられたようだ。


「ま、美歌と幸せになりなよ?」


 真奈海は笑いながらまたわけのわからないことを言ってくる。だけどそれは当然明らかに、僕をからかっているだけのように見えた。


「誰もそんなことまで言ってないだろ」

「じゃ〜ユーイチは、美歌のことが嫌いなんだ?」

「いやだからそういう話でもなくてだな……」


 なんだかこのまま話を続けるとますます真奈海のペースにハマってしまう、そんな予感がした。どうして真奈海はいつも僕を試してくるのだろう。本当に厄介な女の子だ。

 だけど真奈海はこれまでの流れをひっくり返すように、こんなことを言ってきた。


「いいよ〜。わたしはさっきユーイチの告白を聞いちゃったから」

「……え?」


 僕が、何かを言った……? 思い返すが何一つ思い当たることもない。

 だとすると、真奈海のまたいつものホラ吹きなのだろうか?


「ま、わたしはわたしで、美歌に負けないよう頑張るだけだし」

「いやだからちょっと待てよ。さっきって……」

「仕事も恋愛も、ぽっと出の歌姫なんかには負けてられないもんね!」


 僕のすぐ真横でそんな風に笑ってくる真奈海の顔は、実際の距離以上に近く感じられて、それほど明るいものだった。真奈海の顔そのものが夜を照らし出す灯りなんじゃないかって、そう思える程度に。


 少なくとも真奈海は、美歌をライバル視している。

 今の真奈海にとって、最大の友人であり、最大のライバルでもある美歌。

 美歌は美歌でそんなの気にも留めず、マイペースで脇目も振らず頑張るだけなんだろうけど。


 桂川の辺で今宵また、春日真奈海の新しい一面を見た気がした。

 あの真奈海が……春日瑠海が、そこまで美歌を意識していたとは、少し意外だったんだ。

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