真夏の思い出

歌手デビューが決まった日

 真奈海が主演映画舞台挨拶を行ってから、二日後のこと――

 もう少し書き加えると、真奈海さんと管理人さんがデートをした翌日のこと。あたしは一人で東京へ向かい、文香さんが社長を務める芸能事務所を訪れた。そこはビジネススーツを着たサラリーマンらしき人が多数出入りするオフィスビルの一角で、場慣れしていないあたしは少し緊張気味だ。少なくとも、普通の女子高生が出入りするような場所とはやや違うだろうって、それくらいのことは認識しているつもり。

 唯一の救いは、もう一人のあたしがこんな場面で出てこなかったということかな。あの子が出てきてしまったら、こんな場所でも何か非常識なことをやりだしかねないし、予想もつかない事件が発生する危険性だってあるわけだから。


「そんな緊張しなくていいわよ。もう少しリラックスしなさい?」


 応接室に通されたあたしに対し、文香さんは電動ミルでコーヒーを淹れてくれた。お言葉に甘えて、一口そのコーヒーを喉に通す。やはりその味は、糸佳ちゃんがいつも淹れてくれるコーヒーとほとんど同じのものに思えた。きっと、大山家秘伝の絶品ブレンドコーヒーなのだろう。


「あの~……それで、あたしなんかが歌手デビューなんて……」

「何言ってるのよ? あなたは未来みくとしてちゃんと実績があるじゃない」


 訪れた理由は他でもなく、あたしの歌手デビューについて。


「それはもう一人のあたしであって、正確にはあたしじゃないっていうか……」

「でも、この前のライブの時はVTuberで真奈海と一緒に歌ったのよね?」

「あ~、はい……」


 それだって成り行きというか……

 そんな成り行きだけで歌手デビューなんて、なんだか申し訳ない気もするし……


「それだけで十分よ。それにあなた、顔だって結構美人だし」

「いえ、そんな……」


 返す言葉に困る。


「まぁ確かに~……」

「んん……!??」


 ……うん。本当に返す言葉に困ってしまう。


「……でも、美歌さんのスタイルだって、かなりいい感じだしね!」

「あの~、文香さん? 今、なにか別のこと言おうとしませんでしたか?」


 なぜなら文香さんの視線が、あたしの顔から十五センチほど下に下がった気がしたから。


「それに、今の真奈美を救えるのは、やっぱしあなたしかいないわ」

「はぁ~……」

「あなたの恋する優一君は、案の定役に立たなかったようだし……」

「えっと~……言わんとすることが、半分理解できて、半分理解できません!」


 こんな具合で、芸能事務所社長との面談は、およそ十五分ほどで終わったんだ。

 内容は完全に文香さんのペースで、あたしはそれに合わせるのがやっとだった。面談というくらいだからあたしが自己アピールなどをして……と思っていたはずなのに、時間の半分以上を文香さんが喋っていた気がする。どちらかというとあたしの意思確認が目的だったのかもしれない。

 ただ、その話のペースの作り方などは、やはり糸佳ちゃんと話すときのそれに近いものを感じた。静かで、そのくせ計算高くて……この辺りはさすがに親子といった具合なのかもしれない。


 そうして、あたしの歌手デビューが決まったんだ。

 目的は、一人になってしまった真奈海を、あたしが助けること。

 歌手デビューの動機としてはかなり不純かもしれないけど。


 それでもあたしは――

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る