勇気という名の歌声

「何が起きたの? 糸佳、返事して?」


 と文香さん。やはり何が起きたのか誰もわかっていないようだ。


「すみません。なぜかスピーカーから音が出なくなっちゃいまして……」

「どういうこと!?? 優一君、動画配信はできているの?」


 僕は文香さんの声に従い、機材のチェックを確認する。こちらは何一つ問題ない。


「はい。配信は問題なくできています」

「わかったわ。そしたら配信はそのまま続けて」

「え…………あ、はい」

「糸佳。まだ原因はわからないの?」

「はいです。何が起きたのか、まだ全然わかってなくて……」


 僕の周囲にいるスタッフも別のインカムでやり取りしているのか、慌ただしく情報交換を続けている。僕の隣の席で、糸佳も別のスタッフと状況の確認をしているようだ。だけど、どういう会話をしているかまでは、僕の耳に入ってくることはなかった。


 思わずぽかんとしてしまったのは、ステージ上の真奈美も一緒だった。

 僕と同じく、何が起きているのかわからないらしく、激しく動揺している。

 その様子とは、ステージの上でいつもの春日瑠海を取り戻せていないようだった。


「真奈海? そっちのマイクは生きているのよね?」


 文香さんの声に、真奈海は慌てて我に返り、マイクを軽くとんとんと叩く。その音は配信用入力チャネルもちゃんと音を拾っていた。


「大丈夫のようね。そしたらCメロから、アカペラで歌えるかしら?」

「え……?」


 が、配信用入力チャネルは、その真奈海の動揺の声も思わず拾ってしまった。


「ひとまず原因がわかるまで、この場をつないでほしいのよ」

「…………」


 だけど、真奈海からの返事はない。了解の合図もなかった。


「お願いです、真奈海ちゃん! 歌ってください!!!」


 糸佳の泣きそうな声が、インカムに響く。

 それを聞いた真奈海はゆっくりと目を閉じた。もうどうなっても構わないと思ったのか、そのままCメロを声に出し始めたんだ。


「……………………」


 が、その声はあまりにも小さく、辛うじて聞こえるか聞こえないという程度。


 ……駄目だ。真奈海の動揺が激しすぎる。

 ステージの上で完全に孤立してしまった真奈海はもはや抜け殻のようで、肩をやや震わせながらその力をほとんど失いかけていた。ただでさえ歌う前から、いつも瑠海らしさを失いかけていた真奈海。そこへきてこんなトラブルに直面すれば、春日瑠海と言えどもはや打つ手がないってことなのだろうか。


『がんばれ~!! 春日瑠海~!!!』


 気が付くと観客スペースから、そんな声が聞こえてきていた。

 その声は徐々に大きくなっていき、まるで押し寄せる波のよう。

 だけどその声が真奈海の耳に入ってくるほど、真奈海の声は小さくなっていく。

 声援が春日瑠海を、さらに孤独へと導いていく――


 ――春日瑠海って、こんなに弱い女の子だったのだろうか?

 かつて国民的清純派女優と呼ばれた春日瑠海からは、その姿はまるで想像つかなくて……。僕は今までかつて誰も見たこともない春日瑠海を、目にしているような気がして……


 一人、深く青い海の中に沈んでしまった少女を、もはや誰も――


「真奈海っ!! しっかりしろ!! この大バカ者~!!!」


 激しい怒声が僕の耳をじんと痛みつけてきたのは、その時だった。


 音はインカムから……?

 いや、違う。


 その激しい怒声を拾ったのは、動画配信用の入力チャネルだ。

 入力レベルメーターが大きく振れていることが、それを証明している。

 ……てことは、観客にもその声は……


 僕は確かめるように、もう一度観客スペースを眺めた。

 やはり思った通りだ。さっきの声はインカムではなく、ステージ横に取り付けられたスピーカーからも、その怒声が出力されていたんだ。当然、観客は何が起きたのか誰もわからず、皆呆気にとられた顔をしている。


 するとスピーカーから、今度はCメロの歌声が流れてきた。

 伴奏はない。先程文香さんが瑠海に歌うよう頼んでいた、美しく力強いアカペラ。

 でもそれは、春日瑠海の歌声とは全然違う、だけど、どこかで聞き覚えのある声。


 まさか!? そう思った瞬間、観客スペースから再び動揺の声が聞こえ始めた。

 ふと見ると、誰かがマイクを手に持ち、観客スペースからステージの上へ、真っ直ぐ向かって歩いている。観客たちはとりあえずよくわからないまま花道のようなものを作り、その一人の少女をステージの上へ迎え入れようとしていた。


 僕は動画配信用のビデオ素材を確認する。カメラマンは何事もなかったかのように、その一部始終をカメラに収めてくれていた。僕は慌てて周囲を確認する。隣の席に座っていた糸佳もまるで何もなかったかのように、ヘッドホンから聞こえてくる音からボリューム調整を行っているようだった。


 おい、これってまさか…………


「はい、優一先輩。こっちが今日の正しい進行台本です!」

「おいっ茜。これはいったい……ってなんでステージ衣装に着替えてるんだよ!?」


 いつのまにかジャージ姿からいかにもなフリフリのステージ衣装に着替え終わっていた茜は、何一つ答えようとせず、にっこり笑ったまま、僕にその『正しい』進行台本とやらを手渡してきた。


 僕は頭を抱えたまま、もう一度ステージの方を確認する。

 少女は間もなく、ステージの上に辿り着こうとしていた。

 そしてステージの上に辿り着くと同時に、Cメロを歌い終わったんだ。


「美歌……?」


 ようやく真奈海の声……その驚いた声を、マイクが拾う。

 だけど少女は一本指を立てて、それを春日瑠海に見せたんだ。


「違うよ。あたし、ミクだよ? ルミ……」

「え……?」


 未来みくと名乗る、VTuberではないそのままの美歌が、真奈海の質問にそう答える。


「この前、約束したもんね。だから、一緒に歌お?」


 未来がそう言うと、糸佳はCメロから最後のサビに繋がる伴奏を流し始めた。

 瑠海はまだ何が起きているのか頭の整理はついていないようだけど……


 ……でもその時、真奈海の本来の笑顔を、ようやく取り戻せたように見えたんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る