束の間の夏休み

真奈海と優一の甘い夏の日

「ねぇ~、ユーイチ! はやくはやく~!!」

「おい真奈海~? ちょっと待てって」


 電車が駅に滑り込み、ドアがすっと開いた瞬間、真奈海はホームへと飛び出した。黒いハットを両手で押さえ、そこからぴょんと飛び出たポニーテールがふさふさと揺れている。ややおしゃれ加減を控えめにした黒縁の丸眼鏡は、春日真奈海お得意の完璧な変装グッズの一つだ。

 あんなに大きな声ではしゃいでいるのに、周囲は誰一人、その正体が春日瑠海ということに気づいていないようだ。声のトーンも、春日瑠海よりはほんの僅かばかり低め。化粧の仕方も春日瑠海のそれとは微妙に違って、かなり薄めのナチュラルメイク。それでも顔が白く輝いて見えるのは、春日真奈海に潜む素顔の色香のせいかもしれない。


 それにしてもどうしたら自分が春日瑠海だとばれないのか、完璧に熟知しているようだ。女というのは本当に怖い。改めてそれを実感させてくれる。

 糸佳もこれくらい大人びていたら、もっと華やかに見えるんだろうけどな。


「まだ映画までまだ二時間くらいあるから、ショッピングモールに寄ってこ!」

「お前、ショッピングモールなんかに行ったらそれこそバレるんじゃないのか?」

「いいじゃん別に。今更わたしが芸能人ってバレたところで大した問題じゃないよ~」

「いや、大したことあるから! 後で文香さんに怒られるのは僕なんだからな!!」

「ユーイチ? こんなデート中にも他の女性のこと考えているの?」

「考えてない!! つーか文香さんは女性というより仮にも僕の母親なんだけど」

「別に実の母親ってわけじゃないし、禁断の恋があってもいいんじゃないかな~?」

「絶対にないから!! じゃなくて、そういう対象で見るとか考えられんわ!!」


 まったく、何の話だ? 文香さんは糸佳の母親だぞ!?

 仮に万が一にでもそんなことがあったら、糸佳がどう思うかとかいう以前に、芸能事務所始まって以来の大スキャンダルに発展して、もはや事務所を続けていくのが困難になるんじゃないのか? そしたら困るのは真奈海の方だと思うんだけどな。

 ……いやいや、絶対にありえない話だけど!!


「じゃ~なに? ユーイチは糸佳ちゃんとデートしたかったの?」

「それもない。てかあいつは元々インドア派だからデートという柄じゃない!」

「なにそれ。それって何気に糸佳ちゃんに対して酷いこと言ってない?」

「言わせてるのは真奈海、お前の方だろうが!!」


 ちなみに糸佳とデート……という表現は何かと問題があるので、少し表現を変えよう。

 元々糸佳とは幼馴染ではあるけど、一緒に二人でショッピング……などということは過去に一度もない。それというのも糸佳本人がショッピングにあまり行かないのだ。仮に買い物に出かけたとしても、向かう店はというと服屋とかそういう場所ではなく、主に楽器屋がメインだ。どちらかというと僕よりも、エンジニアをやってる僕の父と相性が合うらしく、父の車で糸佳が楽器屋に向かうなんてシーンは何度か見たことある。

 まぁそれをデートとは当然言わないだろうし、別に文香さんだって咎めることはない。


「わかった! 本当はわたしじゃなくて、美歌と来たかったんでしょ?」

「別に……あいつとショッピングしたところで、なんか疲れるというか……」

「ねぇユーイチ? 今度こそ美歌に対してかなり失礼なこと言ってるよね?」

「いやだってあいつ、いつAIに化けるかわからないし、化けたら化けたで大変だし……」

「うわ~。ひどいなぁ~、ユーイチくんは……」


 むしろ美歌とは何度か二人でデートっぽい何かをしたことがあった。GWの時だって真奈海が出演するライブに美歌と二人で会場へ出かけたわけだし、それ以外にも二人でというのは何度かあったんだ。美歌が唐突に『ちょっと買い物の荷物持ちに付き合ってよ』とか言ってくるので、そんなノリで隣町へショッピングに出かけたこともある。それはデートというよりは、ただのついでみたいな軽いもの。

 でもそれを今この状態の真奈美に正直に話したところで、恐らく真奈海は幼い子供のように駄々こねだすに決まってる。だから僕はこんな回答をしたんだ。


 美歌といえば、今朝出かける前『真奈海のこと、しっかり頼んだよ!』と念を押されたんだった。美歌がどういう気持ちでそれを言ったのか僕にはわからなかったけど、ただやはり美歌も真奈海のことを相当気にかけているようだった。

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