チロルハイムの新住民

茜、引っ越しの朝

 猛暑という言葉は、一体どこにあるのだろう。

 今年のカレンダーは、今日から八枚目。八月といえば、青い空、そして青い海……そんなブルー一色というイメージがあるけど、今のところどちらかというとブルーなのは気分のみだ。空は未だに灰色のままで、今日も雨は降り続いている。梅雨明けはまだ先らしい。


 そんな八月の最初の土曜日。朝からチロルハイムの前には小さめのトラックが止まった。女子高生一人分の部屋の荷物が喫茶店『チロル』に降ろされ、それが次々とチロルハイム二〇三号室に運ばれていく。湿度が高いせいか、荷物運びを手伝う管理人さんの額からは汗がだらだらと流れ落ちていた。あたしも小さな段ボールを運ぼうとするが、小さめの箱はおよそ中身が重かったりするので、やっとこさっとこ持ち上げた瞬間に管理人さんにその箱を奪われてしまう。そして、『軽いのを選んで運んできてよ』と言われてしまう始末だった。と言われても、どれがその軽い荷物なのか……。あたしは運べそうなものを選ぶのに一苦労という状態で、なんだかとてつもなく申し訳ない限りだ。

 それにしても、むしろ曇っていて正解だったのか。これで日が燦燦と照らされる朝だとしたら、さらに大変だったかもしれないね。


未来みくさん……でしたっけ?」

「……あ、うん。正確には、美歌なんだけどね」


 やっと見つけた運べそうな大きな段ボール箱を持ち上げたところで、あたしはチロルハイムの新住民に話しかけられた。箱から視線をほんの少しずらして、なんとかその姿を確認するが……ううっ、それにしてもタイミングが……。


「蓼科茜です。今日からよろしくお願いします!」


 丁寧なお辞儀とともに、自慢の黒髪のツインテールがふわりと揺れた。


「あ、こちらこそ……霧ヶ峰美歌です。よろしくね」

「は、はい。未来さんの歌、私大好きです!!」


 にっこりとした笑顔に、茜さんのチャームポイントともいえる大きく円らな瞳が輝いていた。想像していたより、ずっと礼儀正しい女の子という印象だ。茜さんと最初に出会ったのは、先月の七夕ライブの時。そのライブ当日の開演前と打ち上げの時にほんの少し話したきり。お互い緊張していたせいか、あまり多くは話せずにいた。

 七夕ライブの日の茜さんの印象は、真奈海さんに常にライバル心を燃やし、そのせいか口も荒々しい印象があった。それが今日はどうだろう。あたしに対しては随分と態度が柔らかくて、逆によそよそしさを感じてしまうほどだ。


「茜さんだって随分歌がうまいじゃない? あたしなんかただの素人だよ……」

「素人なんてとんでもないです! 未来さんVTuberデビュー前から、私大好きでしたよ?」

「まぁVTuberデビュー前の未来って、本当はあたしじゃないんだけどね」

「え……? どういうことですか??」


 ……あ、そっか。茜さんはまだあたしの秘密を知らないんだね。

 あたしはそれに気づくと、ひとまず笑ってごまかすことにした。いずれはバレるのだろうけど、今はここで話す内容でもないかなって。


 VTuberデビュー前の未来というのは、いわゆる毎日作曲して歌ってそれを動画サイトへアップしているもう一人のあたしのこと。その正体はAIなんだけどね。今でもAIのあたしはそれを継続しているらしい。

 管理人さんと糸佳さんの手によってVTuberデビューを遂げてしまった今となっては、未来個人のチャンネルも登録者数をかなり増やしていた。あたしであってあたしではない彼女の偉業を、あたしは素直に喜ぶことができず、少し複雑な想いを抱えていたりするけれど。


「てゆか未来さん。あんな男に現を抜かして腑抜けたアイドルなんかと一緒に歌ってないで、今度は私と歌ってくださいよ?」

「いや、あの……それはあたしが決められることじゃないし……」


 ところが茜さんはやや挑発的な態度で迫ってきたので、あたしは思わず笑ってごまかした。やはり礼儀正しいなんて嘘かもしれない。誰かに対する言葉の棘は、今日も絶好調だった。


「ねぇ茜ちゃん? 腑抜けたアイドルって、誰のことかな~?」

「あ~、間違えました~。仕事のない、ニートアイドルでしたよね?」

「そうよね~。アイドル業にかまけて主演ドラマの視聴率が伸び悩んでいる女優さんには、わたしアイドルとして到底勝てないそうもないものね~」

「そうですよ~! 女優業を休業したにも関わらず、そのまま鳴かず飛ばずのアイドルに成り下がるとか、私には到底真似できないですも~ん」


 茜さんの背後から真奈海さんが軽くきゅっと首を絞めていた。ただし茜さんの表情から苦しさは感じられない。恐らく真奈海さんは手加減しているのだろう。

 だけどどっちかというと、苦しいのは真奈海さんの方かもしれない。最近特に表情を読むのが難しくなってしまった真奈海さんからは、尚更その想いが伝わってくることはないけれど――


 てか二人とも? 引っ越し早々その痛々しい喧嘩はやめてくれないかな?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る