天の川とチロルハイム

「なんですか? 『お兄ちゃん』!」


 糸佳ちゃんは純白の笑みで、管理人さんに返事をした。その表情は、強気とも弱気とも取ることができない、何とも言えないもの。いや、どういうわけか今の糸佳ちゃんの顔は、テレビの中に映る美しい女優の顔にも見えた。それは、真奈海さんに負けず劣らずの顔で――

 その真っ白な顔に、管理人さんも一瞬たじろいでしまったようだ。


「ど、どうしたもこうしたもないだろ。どうしてそこまで『妹』に拘るんだ?」

「それはもちろん、お兄ちゃんの『イトカ』だからですよ!」


 糸佳ちゃんは管理人さんの質問に対しても、いつもの『そんなこともわからないんですか〜』という顔で対抗する。……いやいや、あたしにもわからないよ。


「……いや、よくわからんけど、そもそも『姉』を拒む理由がやっぱりわからん!」

「だってイトカが『姉』になってしまったら、お兄ちゃんはお兄ちゃんでいられなくなってしまうじゃないですか〜」

「う……うん、まぁそうだけど……それが本当に『姉』を拒む理由なのか?」

「ですです。だって、イトカはお兄ちゃんの妹ですし!」


 ……ダメだ。全然話が噛み合っているように見えない。どう聞いたって、管理人さんの言うことの方が正論とは思えるんだけど、それを糸佳ちゃんは深く考えもせずあっさりと返している。話の終着点が近づくどころか、徐々に遠くなっていくんだ。


「てゆか糸佳だって、去年までは僕のこと『優一くん』と呼んでたじゃないか?」


 管理人さんの言う通り、糸佳ちゃんと管理人さんが兄と妹になった理由は、親同士の再婚。それまでは家が隣同士の幼馴染だったはずだ。それなのに――


 すると糸佳ちゃんは少し元気なさそうに、こう管理人さんへ質問をしていた。


「ひょっとしてお兄ちゃん、糸佳に『お兄ちゃん』と呼ばれるの、嫌いなんですか?」


 まるで冷たく鋭いナイフのような言葉が、管理人さんの方へと向けられていた。

 さっきまで冷静な態度を保っていた糸佳ちゃんの顔が、少しだけ揺らいで見える。それが、尚更空気を冷たいものへと変えていた。


「ぼ、僕は…………」


 そして、管理人さんの釈然としない態度が、さらに重たい空気へと変えていく。


「ふふっ。わかりましたよお兄ちゃん!」

「え、なにが?」


 が、その重い空気を少し和らげたのは、糸佳ちゃんの澄み切った声だった。


「これ、誕生日プレゼントです!!」


 すると糸佳ちゃんは喫茶店『チロル』のカウンター席に置いてあった紫色の包みを手に取ると、それを管理人さんに手渡した。


 ――その話の流れには、何一つ脈絡というものがなかった。


「あ、ああ。ありがとう……」


 どこか腑に落ちない表情を浮かべながら、管理人さんはそれを手に取ると、ゆっくりと包みの中を開けていく。その中身は、あたしと一緒に探していた管理人さんへの誕生日プレゼント、栞とブックカバー。


「また、栞か……」


 管理人さんは糸佳ちゃんに聞こえるか聞こえないかくらいの声で、そう呟いた。

 そして思い出したかのように、管理人さんは背後のテーブルに置いてあった掌くらいの四角い包みを手に取ると、それを糸佳ちゃんに手渡す。


「これは、僕からのプレゼント……」

「ありがとう、お兄ちゃん!」


 糸佳ちゃんはにっこりとした笑みを、管理人さんに返している。そしてその包みを受け取ると、そのまま自分の背後にあったテーブルに置いたんだ。

 その包みが、この場で開かれることはなく――


 あたしの横では、真奈海さんが小さく笑っていた。


「どうしたの、真奈海さん?」


 その様子があたしには少し不思議に思えて、真奈海さんにそう聞いていたんだ。


「え。……もうすぐ、七夕だなって」

「七夕?」


 真奈海さんは唐突に、七夕の話をし始めた。


「……ねぇ美歌さん。知ってた? 織姫と彦星って、離れ離れになった恋人なんかじゃなくて、実はただのぐうたら夫婦だったって話」

「え、恋人じゃなかったの?」


 そんな話、残念ながらあたしは聞いたことがなかった。


「つまりさ。織姫と彦星って、既に家族だったって話だよね?」

「家族……?」

「仕事をサボってばかりだった織姫と彦星は、天の神様に天の川の両岸に引き離されちゃったんだって。夫婦なのにだよ? なんだかそれってむしろ情けないと思わない?」

「…………」


 あたしの頭の中を、もやっとするものが突然襲い掛かってきた。


「織姫と彦星が恋人同士だったら、七夕も美談になったのにね」


 にっとした笑みと共に零された真奈海さんのその言葉は、ちくりとあたしの胸を刺してきたんだ。それはやがて、冷たい痛みへと変わっていく。

 あたしの視線の先には、糸佳ちゃんの堪えきれない笑顔と、管理人さんの煮え切らない顔が、幻のように浮かび上がっていた。


「そうだ。糸佳、真奈海、美歌さん? 七夕ライブの準備はどうなのよ?」


 文香さんが声を上げたのは、その時だった。


「あ〜、わたしと美歌さんの方は大丈夫ですよ〜!」

「イトカの曲の方も、美歌さん頑張って練習してます!!」


 真奈海さんも糸佳ちゃんも、『全然問題ありません』という表情で文香さんに応対していた。もっともどちらも歌うのはあたしで、本当に大丈夫なのか定かでないけど、なんにしたってやるしかないわけで――


 そんな不安を抱えた七夕ライブまで、あと一週間とちょっとだ。

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