糸佳の誕生日

 文香さんと龍太さんがチロルハイムに到着したのは、夜の十九時を少し回った辺りだった。それは糸佳ちゃんとあたしがちょうど夕食を盛り付けを終わった頃で、本当にタイミングとしてぴったりだったようだ。

 それから間もなく文香さんと龍太さんは着替えをしに、管理人さんの部屋へ移動する。逆に管理人さんは、二人に追い出されるように喫茶店『チロル』へと移動してきた。文香さんと龍太さんの部屋着は、他の部屋より少し広めの管理人室に置かれている。文香さんと龍太さんががチロルハイムにやって来ると、管理人さんは一時的に自分の居場所を失うんだ。糸佳ちゃんに言わせると、『普段から広い部屋にいるんだからお兄ちゃんは我慢するべきです』などという話らしい。


 あたしと糸佳ちゃん、そして管理人さんも手伝って、夏野菜がたっぷり添えられたクリームシチューが食卓に並べられる。季節的には夏ではあるけど、その色とりどりの野菜を見ると、不思議と暑さなど忘れてしまいそうだった。

 その間に部屋着に着替え終わった文香さんと龍太さん、そして地下スタジオで歌とダンスの練習をしていた真奈海さんが席に着く。


「それじゃあみんな揃ったことだし、いただきましょうか」

「「「いただきます!!」」」


 文香さんの合図で、糸佳ちゃんと管理人さんの真ん中バースデーパーティーが始まったんだ。


「優一くん。お誕生日おめでとう」

「……あ、ありがとうございます」


 文香さんはまず管理人さんに声をかけた。それに対して管理人さんは、どこか照れくさそうにしている。尚、管理人さんの父である龍太さんに至っては、今でも黙ったまま。管理人さんに声一つかけようとしてない。恐らく龍太さんは、そういうのが苦手なのだろう。こういうところはさすが管理人さんと親子似た者同士だ。あたしは思わず、笑いを隠しきれなくなった。


「糸佳ちゃんも誕生日おめでとう」

「ありがとうございます! でもでも、イトカの誕生日はまだなんですけどね」


 真奈海さんが糸佳ちゃんに声をかけた。確かに形式的には真ん中バースデーなわけで、管理人さんの誕生日が昨日、そして糸佳ちゃんの誕生日は明後日だ。とはいうものの……


「でも、それはもう誤差の範囲じゃないかな?」


 あたしは糸佳ちゃんに、笑いながらこう返したんだ。


「そんなのダメです! それ許してしまったら、イトカとお兄ちゃんの誕生日が一緒になってしまいます!!」

「え、一緒じゃダメなの?」


 強くきっぱりと否定する糸佳ちゃんに、あたしはその理由を聞いた。


「もちろんダメですよ! 誕生日が一緒になってしまったら、イトカがお兄ちゃんのこと『お兄ちゃん』って呼べなくなるじゃないですか!!」


 ここで思わず吹き出してしまったのが管理人さんだ。……まぁ無理もないか。さすがに今回ばかりは管理人さんに同情するよ。


「そしたら糸佳ちゃん? 誕生日が一緒だったら、ユーイチのこと、なんて呼んでたの?」

「う〜ん……………………」


 真奈海さんの鋭いツッコミに、糸佳ちゃんは考え込んでしまった。が、その考える時間も僅かに数秒。あっという間に糸佳ちゃんは、自分なりの答えを導き出したようだ。


「やっぱし誕生日が一緒でも、お兄ちゃんは『お兄ちゃん』です!」

「なんでだよ!?!??」


 管理人さんはもうわけわからん!という顔をあたしたちに見せていた。ボケるどころか、その理由を聞くのが精一杯だったようだ。ところが糸佳ちゃんは完全にしらばっくれていて、管理人さんの疑問については一切返そうとしなかった。


 ただし、その光景を面白がっている人物が、糸佳ちゃん以外にもうひとり――

 彼女は不敵な笑みを浮かべながら、糸佳ちゃんにこう切り出したんだ。


「それ……ひょっとして、自分の誕生日がユーイチより早くても、糸佳ちゃんはユーイチのこと、『お兄ちゃん』って呼んでたのかな〜?」


 得意満面の顔をしながら糸佳ちゃんにそう聞いたのは、管理人さんのことを『ユーイチ』と呼ぶ唯一の人物、真奈海さんだ。一体真奈海さんは何を聞きだそうとしているのだろう? あたしにはその質問の意図がよくわからなかった。だって、管理人さんより糸佳ちゃんの誕生日の方が前だったとしたら、糸佳ちゃんが『姉』となるのは必然なわけであって――

 ……が、糸佳ちゃんは少し考えた後、あたしの考えとは別の回答を導いたんだ。


「やっぱり、お兄ちゃんはお兄ちゃんですよ」


 頑固な糸佳ちゃんは、それを押し通そうとしたんだ。

 それを聞いた管理人さんは呆気にとられて、何一つ言葉を返せないでいるようだった。もう否定する気も失せてしまったのだろうか。

 ただ真奈海さんだけは、その後に続く当然の質問を、糸佳ちゃんに返す。


「ふ〜ん。……それって、なんでかな?」


 それはまるで、糸佳ちゃんの回答を先読みしていたようで……。


「だって、イトカにとってはたった一人の『お兄ちゃん』ですから」

「なんで? 糸佳ちゃんの方が先に生まれていたら、糸佳ちゃんが『お姉さん』だよね?」

「イトカが『姉』だなんて、想像もできません。お兄ちゃんはお兄ちゃんです!」

「ふ〜ん。糸佳ちゃんはどうしても、それを譲る気はないんだね?」

「もちろんです! お兄ちゃんにとって、イトカはたった一人の『妹』ですから」

「……おい、糸佳!!」


 どこか面白がって質問攻めをする真奈海さんに、それを完璧に迎撃する糸佳ちゃん。

 そこへようやく声を荒げたのは、管理人さんだった。

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