糸佳のカレーに深まる疑問
「それで、お母さんはなんと言ってましたか?」
「ああ。お互いがすっきりするまで、203号室を使ってもらって構わないってさ」
「…………」
金曜日、夜の喫茶店『チロル』。時間は十九時を少し回った辺り。
八人用テーブルには糸佳が作った四人分のカレーが並んだ。四人と言っても座っているのはいつもの四人ではない。僕に糸佳、美歌、そして、美歌の妹である美希がそこに座り、僕がかけた電話が切れるのを静かに待っていた。真奈海はまだ仕事中。今日は明日のライブの打ち合わせだと言っていた。
電話の相手は、糸佳の母文香だ。内容は、美希のチロルハイム滞在について。
美希は宿泊用の荷物を持って、チロルハイムへとやってきていた。その荷物の量があれば、少なくとも二泊三日くらいの宿泊はできそうだ。事実、『日曜日までここに泊まる』と美希は言ってきている。ただ僕も管理人とは言え、勝手に判断することはできない。その許可を文香に委ねたんだ。
美歌はじっと黙ってそれを聞いていた。
僕が美希を連れて帰ってきてから、その口をまだ一言も開いていない。
「そしたらお兄ちゃん。そろそろお腹空いたので食べ始めませんか?」
「ああ……って糸佳。非常に今更なんだが、なんで今日はカレーなんだ?」
「今日は来客の方が見えましたので、無難なところでカレーかなって」
「それはようするに……来客の方に対して、嫌がらせをしたいのか!?」
そういえば美歌がこのチロルハイムにやってきた日も、糸佳はカレーを作っていた。そのカレーの味は、門外不出の超激辛カレーだ。いや、別に外に出しても構わないと言えばそのとおりだが、それを食べた人はほぼ確実に意識を失うというレベルのはず。事実、美歌の場合でさえも、そんな具合だったじゃないか。
たしかあの時は……。
「管理人さん、大丈夫。美希も辛いのは得意だから」
その日のことを思い出していると、美歌はそっと僕に聞こえるくらいの声でそう答えてきた。その声は、美希に聞こえたか聞こえないかくらいの小さな声。
その声で僕はようやく思い出した。あの日美歌がカレーを食べた瞬間、人格がすっと入れ替わったことを。だとすると、今ここにいる美歌は――
「とりあえず……食べるか」
「はいです。いただきましょう!」
「「「いただきます」」」
その挨拶は、美希は小さな声で、美歌に至っては黙ったまま手を合わせたのみ。
しばらく美歌はその場でスプーンを置いたまま、じっとカレーと睨めっこをしていた。が、何かをようやく観念したかのように深く溜息をつくと、左手でスプーンを持ち、糸佳特製の激辛カレーを口へと運んだ。
その後もあの日のように、特に意識を失うことはなく……。
美希も同様にカレーを口に運んだ。美歌の言ったとおり、辛いのは全く問題ないようで、意識が失う様子もなければ美味しそうに食べている。
が、その表情はじっと美歌の様子を伺ったまま――
「やっぱり、お姉ちゃんなんだね……」
――何かを確信したように、美歌を睨み、強い口調でそう言い放ったんだ。
「え。どういう意味ですか……?」
「…………」
その言葉にも、美歌はやはり反応しない。
糸佳は疑問を感じたようだが、僕はなるほどとその言葉の意味が理解ができた。
一人称『あたし』の美歌は、右手でスプーンを持つことに挑戦したことがある。だが結局うまく扱うことができず、どう見ても不自然な光景となってしまっていた。
だから今日は諦めて、普段の利き手である左手を使ったのだ。
「お姉ちゃん……もうこれ以上、隠さないでください! そこにいるのはお姉ちゃんなんだって、あたしにはわかってしまうんですから!!」
美希は大きな声で言い寄るものの、美歌はまだ黙ったままだ。
「だって、あたしはあの子にお姉ちゃんと同じになるように、左利きの学習をさせようとしたんです! でも、あたしが右利きなばかりに、なかなかうまく学習してくれなくて……」
学習……? 何か、美希のその表現には違和感があった。
それは、別の人格となった姉に一から生活の仕方を教え込もうとしたような表現で……いや確かにもう一人の美歌は今でも危なっかしい性格で、その表現は合っているのかもしれないけど。
「それにお姉ちゃん。もう気づいているかもしれないけど、一定以上の刺激物が口に入るとあの子の計算能力が追いつかなくなって、オーバーヒートしちゃうんです。だからこんな辛いカレーを食べたら、あの子はもう動けないはずなんですよ?」
計算能力? オーバーヒート?? ……いや、何かの聞き間違えだろうか。
「でもまだこんな辛いカレーを食べ続けてるってことは……つまり今ここにいるのは、あの子じゃないってことなんです!」
そもそも別人格と言えど、姉のことを『あの子』と呼ぶのはどうなんだろう?
「お姉ちゃん……お願いだから、返事をして……」
「…………」
「もうあたしの前から逃げるを止めてください!」
「…………」
「あたしは、お姉ちゃんのことをずっと……」
糸佳特製激辛カレーが、舌にしみる。
その理由が辛さのせいなのか、美希の言葉のせいなのか、僕には判別できない。
美希の目には既に涙を浮かべていた。美歌の言う通り、『甘えん坊』なのか。
美歌はしばらく難しい顔のまま、黙って美希を睨んでいたが――
「言いたいのは、それだけ?」
ようやく美歌は、その口を開いたんだ。
「……ねぇ美希? さっきから聞いてると、今でももう一人のあたしを受け入れてないみたいだね?」
「だって、あれは……」
「あれは……なに? 美希の失敗作だとでも言うの?」
「そんなことない! だってあれは、お父さんが遺した……」
「そうだよね。元々はパパが遺した、『AI』だもんね」
「……うん」
「だから、それを否定するのは……いくらあたしでも許さないよ!!」
徐々に語気を強めた美歌の言葉は、突き刺さるような姉の言葉だった――
――今、なんて言った? 『AI』……だと!??
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