青く深く沈む静かな想い

「はぁ〜。やっぱ、真奈海ちゃんには叶わないな〜。全部お見通しか……」


 美歌はそう、呟くようにぼそっと零した。

 真奈海の深く優しい瞳の虜にされてしまったような、そんな目をしている。そこには強い憧れがあり、強い意志があった。妹を救ってあげたいという気持ちと、何らかの事情で妹の側にいてあげられないという現実が、それだけせめぎ合っているということなのかもしれない。


「あたしだって、本当はあの子の側にいたい。……そりゃそうだよ。だって、たったひとり残された、大切な家族だもん!」


 これが恐らく、美歌の本音……。


「でもね。そんなの、もう夢物語なんだよ。もう現実ではない、現実の……」


 ただ、それだけではないもっと別の現実が、美歌を悩ませている。

 美歌の言う『あの子の知ってるあたしじゃいられない』というのは恐らくそういうことなのだろう。噛み合わない歯車が、理想と現実の世界を行ったり来たり……。美歌の中でなにか大きな力が、その現実を狂わせているのだろう。

 美歌の身体は、ほんの少しだけ震えている。まるで冷たい海の底に沈んでいくかのように、その瞳はどこか遠くを見ていた。


「ねぇ、美歌さん……。どうにか、二人で暮らす方法はないんですか?」


 そう弱々しい声をかけたのは、糸佳だ。どこにいるのかもわからないような暗い道をただ真っ直ぐ進むより、どこかに灯りを見つけて、ひとまずそこへ落ち着いたほうが……。それは僕も糸佳も同じ気持ちなのかもしれない。


「無理だよ。……だってあたし、こんな性格だよ?」

「こんな性格って……?」


 僕の疑問に美歌は躊躇なく、こう説明してきた。


「あたしは……二重人格。いつだってあたしでいられるわけではない……」

「え……?」


 が、その説明は僕も理解しているようで理解しきれていなかった、そんな答えが返ってきたんだ。確かに美歌は二重人格だってことは知っていた。真奈海も糸佳も、今はその話を理解してるはずだ。

 だけど、それが妹と暮らせない理由とはどういう意味なのだろうか?


「あの子の知ってるあたしはあたしであって、もう一人のあたしじゃないの」


 どうやらそれがその答えのようだ。それだってまだ理解できる話ではないけど。


「もう一人の美歌に、妹さんが会うことができないってことか?」

「だいたい合ってる。あの子、もう一人のあたしのこと、ずっと拒絶してるから」


 僕はふと思い出していた。それは今日、美歌が帰ってきたときのこと。

 美歌が帰ってきたとき、あの制服の着こなしは明らかに今ここにいる美歌だった。ところが美歌は妹を見た瞬間、まるでもう一人の美歌を演じるかのような態度を取った。それは学校ではいつもどおりの美歌の行動パターンではあるけど、気を許した仲しかいないチロルハイムでは、『あたし』の美歌はいつだって『あたし』だ。


 そんな美歌が敢えて『私』を演じた。なぜならそこに、妹がいたから……?

 だから美歌の妹は、『今のは姉ではない』と言い切ったということか。


「前に管理人さんには話したよね。一度あたしは、完全にいなくなってたって話」

「ああ。言ってたな」


 それは、連休中にライブ会場へ向かう電車の中で聞いた話。美歌は一度この世界から完全にいなくなって、代わりにもう一人の美歌が代役を務めていたと言っていた。


「もう一人のあたしが美歌をずっと続けている間、あの子ずっとあたしのことを拒絶してて、一緒に暮らすことができなかった。あたしたちが別々に暮らすことになったのはその頃から……」

「そんな、どうして……?」


 糸佳が不思議そうな顔で美歌を見つめる。もう一人の美歌というのは、一人称『私』の美歌のこと。確かに美歌のいう通り、ずっと一緒に暮らしていた姉が、突然全然別の人格で動き始めたら誰だって困惑するだろう。僕が知ってる限りでは、利き手も違うし、性格も真反対だ。拒絶してしまうのも仕方ないことかもしれない。

 でももう一人の美歌だって、そんなに性格の悪い女の子ではない。たったひとりの家族だというなら、その違いというのは拒絶するほどなんだろうか。


「あの子、あたしがあたしじゃなくなったことに、責任感じてるから……」

「責任……?」

「そう、責任。……あの子ね、もう一人のあたしのことを見て、『あんなお姉ちゃん知らない!』とまで言い出したのよ? 酷いよね〜、自分の実の姉を捕まえてさ」


 美歌は薄ら笑いを浮かべながら、その理由を『責任』と説明している。だが、その説明は到底合点できるものではない。何故か美歌はその『責任』の意味をはぐらかそうとしていて、説明を拒もうとしているから。


「だけどあたしは、あの子に感謝してる。あの子がどんなに拒んでも、あたしの方は、あの子にももう一人のあたしにも、感謝の気持ちでいっぱいなんだよ……」


 そう言うと、美歌は小さく微笑んだ。妹へ届かない想いをぶつけるかのように――


「だって、もう一人のあたしのおかげで、今あたしはこうしていられるわけだし、こうやって真奈海ちゃんや糸佳ちゃん、そして管理人さんにも出逢えたわけだしね!」


 そしてその笑顔をみんなに振り撒いてくるんだ。今ここ、チロルハイムでの生活は、美歌にとってかけがえのない時間であって、そんな時間を大切にしたい、共有したい――それが十分に伝わってくるほどだった。

 僕は美歌の言う『責任』の言葉の意味は全然理解できないけれど、『感謝』の言葉の意味だけは何となく伝わってくる気がした。


 だって、確かに美歌はここチロルハイムで、ちゃんと生きているわけだから――


 ……え?


「だからあたしは、もう一人のあたしが書いてくれたこの曲を歌ってみたいんだ」


 何かが唐突に、嫌な予感だけが僕の頭を一瞬過ぎった。だけどそれが何であったのか、もしくは気のせいだったのか……その思考を寸断するように、美歌はそう言葉を零したんだ。

 美歌の手元には、いつか見せてくれたあの五線譜のノートがある。いつも大切そうに、肌身離さず持っているようだ。


「あれあれ? それって、もう一人の美歌さんが書いたものなんですか?」

「ごめんね。糸佳ちゃんにもずっと黙ってて。糸佳ちゃんも作曲家さんなのにね」

「いえいえ。……でもそのバラード、本当に綺麗な曲だなって思ってましたから」

「ありがと。って言っても、あたしが書いたわけじゃないんだけどね」


 連休の真奈海のライブの日の夜、四人でつくろうと語ったその曲。

 でも本当は、四人ではなく、五人だったのかもしれない。もう一人の美歌がどういう考えでこっちの美歌にこの曲を託したのかはわかっていないけど、ただその曲のフレーズから何となく理由が伝わってくるような気がした。なぜならあの日、もう一人の美歌の想いもちゃんと聞いていたから。


 青く染まった海のように、深い深いその曲と、そこから伝わる想い――


「美歌ちゃん。この曲、絶対完成させようね〜」

「ありがと真奈海ちゃん! こちらこそよろしくね!!」


 真奈海はきゅんとするような笑顔を、美歌にぶつけていた。

 僕だってその曲を早く完成させたいって、この時は本当にそう思ったんだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る