国民的女優と一人の男子高校生
春の昼下がりの『チロル』会議録
四月中旬。春の名物桜の花びらが、路面いっぱいに咲き始めた今日のころ頃。
美歌が引っ越してから数日経ち、ここチロルハイムもようやく静寂の日々を取り戻してきた。ただ、真奈海だけは少しだけ落ち着きがなく、その真奈海の感情の波に僕も釣られてしまう時もあるけれど。
――でも、あの日からもう少なくとも一ヶ月くらいが経とうとしていたわけで、僕と真奈海の関係も少しずつ改善されてきた……ように感じられる。
「お兄ちゃん! なにぼおっとしているのですか??」
甲高い糸佳の声が喫茶店『チロル』の店内に響く。ちなみに今日も客はいない。
時間は間もなく十六時になろうとしているところ。このぽかぽか陽気にうとうとと眠くなりそうな時間帯、コーヒーを戴くにはちょうどよい頃合いだと思うのだが、住宅街のど真ん中という場所のせいだろうか、誰一人客は立ち寄ろうとしない。いや、それにしたって一人くらいは常連客がいてもいいと思うのだが……。喫茶店『チロル』は実に商売っ気のない店なのだ。
糸佳は糸佳でカウンターの中に入り、のんびりと手挽きミルの手入れをしている。いつ来るかわからないお客のために。いや、ひょっとすると糸佳自身が美味しく戴きたいだけかもしれない。
それにしても眠い……。
「ダメですよ! 一応まだ開店中なんですから」
「『一応』って、店員の糸佳がそれ言っちゃダメだろ……」
「そういえば今日は夕方からお母さんが会議に使いたいからよろしくって言ってましたです」
「……いやもはや最初から商売する気ないだろこの店!!」
ここ喫茶店『チロル』は、店のオーナーでもある糸佳の母文香が事務所所属のタレントさんを連れて会議をすることが稀にあった。その場合、文香とタレントさんが来店するのはおよそ夕方の十七時。そうなると一時間ばかし早い強制閉店となり、ゆっくりコーヒーを戴いていたかもしれない客は、そのまま店から追い出されてしまうのだ。これで客からクレームが来ないのはある意味奇跡なのではないだろうか。もっとも客なんて本当にいればの話だが。
「今日は文香さんの他に、誰が来るんだ?」
「和歌山千尋さんと高坂胡桃さんって言ってました。ちょっと楽しみです」
「ああ、あの二人か。てことは、曲作りの打ち合わせかなにかか?」
「はいです。なので、イトカも参加予定です!」
千尋と胡桃は昨年糸佳が作曲した曲で、VTuberデビューしていた。僕もその際に二人には会っていて、その時のイメージからVtuberのキャラクターデザインを行っていたのだ。二人とも一つ年上で、感じの良いお姉さんという具合。真奈海も仕事からプライベートまで、多くの相談に乗ってもらっているらしい。
「あの二人、本当に歌も上手いしな。そろそろCDデビューかな」
「う〜ん……そこまでは聞いてないですけど……」
「そっか。いい話だといいな」
「はいです。あ、そういえばお兄ちゃんも打ち合わせに参加してほしいだそうです」
「え、なんで!??」
僕はあくまでVTuberの動画制作担当。それは曲作りよりもずっと後のフェーズなのだけど……。
「なんでも、男子高校生代表ということで、意見がほしいんだそうです」
「そっちか……」
糸佳の言ってることは確かに話としてわからないこともない。そのターゲットが男子高校生であるなら、僕の意見も重要だと言われるのもむしろ自然の話のようにも感じる。ただ、これまで文香にそういう依頼を受けたことはなかったため、どうしても多少の違和感が残った。なんにしても唐突なのだ。
「イトカとしてはお兄ちゃんが打ち合わせに参加することには、少し賛同しかねるんですけど……」
「なんで?」
糸佳はカウンターに肘を立てて、真っ直ぐ円な瞳で僕の方を見ながら、そんなことを言っていた。
「だってお兄ちゃん。また綺麗な女性達の前で鼻の下を伸ばしかねないですし」
「……おい。僕のことを何だと思ってるんだ?」
なんだろう……。チロルハイムに美歌がやってきてから、糸佳はこんなことばかり言ってきているような気がする。それは一体どういう意味なんだ……?
「それにしても美歌さんも綺麗な人だけど、ちょっと変わった人ですよね」
「そして急に話を逸らしてくるんだな、糸佳は……」
「だって今日だって二階の教室の窓から校庭へ飛び降りちゃうんですよ!」
「ああ……。あれは確かに……」
それは二時間目が終わった直後のこと。三時間目は教室移動があるということで、教室内が少しざわついていたときのことだった。移動先は一階の美術室。確かに美術室は教室から見てほぼ真下の位置にあるし、昇降口もすぐ近くにあるので、窓から飛び降りたほうが早いと言えば早い。が、だからといって本当に窓から飛び降りる女子高生なんてどこにいるというのか。
「イトカ、女子高生が窓から飛び降りるなんて初めて見ました!」
「男子だって飛び降りるやつなんかいないっつーの!」
そういえば自分を『あたし』と呼んでいた美歌が、『もう一人は右も左もわからない常識知らず』だと言っていた気がする。だから自分がもう一人の自分をフォローするのだとも。
その話のとおりだとすると、教室から飛び降りたのは恐らく自分を『私』と呼ぶ美歌の方。なるほどたしかに危なしい存在だ。きっと『あたし』がその瞬間にも意識があるのだとしたら、心臓が飛び出そうになったに違いない。なんだか同情と言うより可哀想に思えてくる。
「はぁ〜……」
「どうしたんですか溜息なんかついちゃって。そんなことしたら幸せが逃げちゃいますよ!」
幸せかぁ〜……。
そもそも僕は、幸せなのだろうか?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます