第一次チロル対戦前夜

 糸佳の母文香と、事務所の所属タレントである千尋と胡桃が喫茶店『チロル』に到着したのは、十七時きっかりだった。千尋と胡桃も都内の私立高校に通う高校三年生。文香は都内の事務所から車を飛ばして、途中二人が通う高校に立ち寄り、ここ『チロル』までやってきた。そのため千尋も胡桃も自分たちの学校の制服を着たままだ。学園ドラマに出演経験のある二人の制服姿は決して目新しいものではないが、それでもブレザーの制服をラフに着こなすその様子は自然体そのもので、ドラマの中の女子高生とは別人のような印象があった。そういえば確かに、真奈海もそういうところあるもんな。


「糸佳〜。優一くんも誘っておいてもらえた?」


 喫茶店『チロル』のドアが開くと同時に、文香の声が聞こえてきた。


「はいです! お兄ちゃんもちゃんと逮捕しておきました!」

「逮捕って……僕は犯罪者じゃないっつーの!」

「綺麗な女子高生の前で浮ついてばかりという日頃の行いを悔いてください!!」


 それにしても糸佳の応答は相変わらず滅茶苦茶だ。それを文香の隣で聞いていた千尋と胡桃もくすくすと笑っている。これでは僕は完全に笑いものではないか。


「お久しぶりです。糸佳ちゃん、優一くん」

「糸佳に優くん、また今度もよろしくお願いしますね〜」


 千尋と胡桃にこうして会うのは、VTuberの打ち合わせ以来だ。二人とも糸佳の曲でVTuberデビューしていて、糸佳のチャンネルの登録数が増えたのも二人のおかげと言っても過言ではなかった。女子高生とは思えないほどの力強い歌唱力で、ファンの数を確実に増やしてきていたんだ。


 ただ、そんな二人をVTuberのままとしておくには確かにやや勿体ない気もしていた。凛とした態度が大人の魅力を感じさせる千尋と、きらきらと輝く笑顔が素敵な胡桃。二人とも女子高生と言うより、制服姿でさえなければ女子大生と見間違えられてもおかしくないオーラの持ち主なのだ。糸佳や真奈海とは年が一つしか違わないと言われても、なかなか信じがたいものもある。

 真奈海こそ変幻自在の演技力で大人顔負けのビジネスウーマンになりきってしまう可能性もあるが、チロルハイムでの真奈海のポンコツさを知る僕としてはそんな演技されたところで、どうしても胡散臭く感じてしまう気がする。糸佳に至っては同じ年の僕を『お兄ちゃん』と呼んでくるレベルなわけで、大人の魅力とは最も程遠い女子高生かもしれない。


「お兄ちゃん、なんだか今とてつもなく失礼なことを考えてますね?」

「え……」


 が、糸佳のこの鋭さだけには本当に気をつけなくてはならない。千尋と胡桃、そして糸佳と、視線がちらほら行ったり来たりしていたのを糸佳はしっかり見ていたらしい。こういうところは抜け目ないな、本当に。


「ほら糸佳。優一くんのそういうところを聞き出したいんだから、今日はそういうこと言わないの」

「お母さんまで、今日はお兄ちゃんの味方なんですか!??」

「そうですね。今日のお仕事は優一くんをいかに誘惑させるかですもんね」

「今日は優くんを最も振り向かせた女子が勝者だぞ〜!!」

「……あの〜。僕、そろそろ自分の部屋に戻っていいですか?」


 今日、この打ち合わせに僕が呼び止められた理由は、『CDを売り込むためにいかに男子高校生の目を留めさせるか』という議論をするため。言わば今日の僕は実験台らしい。

 大人の女性一人、年上の女子高生二人、『お兄ちゃん』と呼んでくるクラスメイト女子一名、計四人の女性と童女。これ、どう考えても僕の完全アウェー感は拭えないのだが……。


 今日の打ち合わせ、敵前逃亡もありですよね?

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