糸佳の特製カレーはチロルハイムの小さな洗礼!?

 糸佳が『チロル』の厨房でカレーを完成させたのは、十九時ちょっと前。

 今日は霧ヶ峰美歌の歓迎パーティーということもあり、カレー以外にもいつもより豪華なデザートが並ぶ。そういえば先程美歌が口にしていたオレンジもその材料の一つだったようで、春によく見かける柑橘類を中心に、それ以外にもいちごやマンゴーなど、あらゆる果物が食卓に彩りを添えていた。


「そういえば糸佳。……このカレー、あくまで美歌さんの歓迎用だよな?」

「はいです! 歓迎用に少し量を奮発してしまいました」

「……いや、言ってる意味が通じていないかもしれないけど」


 昨晩の真奈海による大量お好み焼き投下事件の後では、カレーで多少量を多めに作ったところで大して問題にならない気もする。その点で言うとカレーはある程度の保存食にもなるから、むしろ明日の食事当番の人が楽になるくらいだろうか。とは言え今晩の糸佳のカレーは、保存できるまでの量を作り込んでいるようには見えない。この四人で食べようと思えば今晩だけで食べ切れてしまいそうな、そんな量である。

 いやいや、僕が指摘したかったのはそこではなくて……。


「うわ〜。糸佳ちゃんのカレー、今日も美味しそう!」

「本当に美味しそうですね。私、お腹空いたので早く戴きたいです」


 と、真奈海と美歌が席についたところで、


「「「いただきます!」」」


 と、一斉にスプーンを手にした。

 僕は美歌が右手でスプーンを持ち、カレーを口に運ぶところまで確認した後で、ようやく自分もそのカレーに手を付けた。するとその瞬間、案の定とも言うべきか、一抹の不安がそのまま確信へと変わった。


 いつもの糸佳のカレーだ。紛れもなく、他に言いようもないくらいに。

 その正体は、超激辛カレー――


「ぅ……………………」


 美歌の小さな声が漏れた後、目をくるくる回しているのがよくわかった。


「おいっ、霧ヶ峰さん。大丈夫か!?」

「え、どうしましたか? イトカのカレー、口に合わなかったでしょうか?」

「そりゃこんな辛いカレーを食べさせたら、こうなるに決まってるだろ!」

「でもでもお兄ちゃん。これ、イトカのいつものカレーですよ!?」

「そのいつもどおりが問題なんだっつーの!!」


 ちなみにチロルハイムでは確かにいつもどおりのカレー。即ち、真奈海と僕はその味にすっかり慣れさせられてしまったため、全く問題なく戴いていた。真奈海に至っては美歌の異変もひとまず横目に、美味しい美味しいとまだそのカレーを口に運んでいる。

 元々チロルハイム名物とも言える超激辛カレーは、糸佳の母、文香の得意料理だった。それを何も知らずに血縁ごと引き継いでしまった糸佳は、実際このカレーしか作り方を知らないのかもしれない。僕と父龍太も、最初は戸惑いながら食べていたわけだが。


 要するに美歌は、チロルハイムの住人の洗礼を初日から受けてしまったわけで。

 今更ではあるけど……初日からカレーである必要はどこにもなかったよなと、今更ながら僕も後悔する。そんな重要なことに今更気づき、もう少し早めに糸佳に言っておけばよかったのだが。それこそ今更なのだ。


「どうしましょうお兄ちゃん。霧ヶ峰さんの口には合わなかったかもしれません」

「かもじゃなくて合わなかったの! とにかく霧ヶ峰さんの意識を起こさないと……」


 美歌はくらくらとした後、そのまま目を閉じていた。僕は横から美歌の身体を小さく揺すり、その容態を確かめている。これはさすがにやばいのでは……と思い始めたその時、美歌はすっと目を開けた。


「ちょ、ちょっと。なに人の身体を気安く触っているのよ!?」

「…………はい?」

「あたし、カレー大好きなんだよね〜。ねぇ、これ食べていいんだよね?」

「うん。いいけど……」


 そう美歌が言ったかと思うと、僕を弾き飛ばすかのようにすっと起き上がり、僕が頭の中を整理する前に美歌は左手でスプーンを持った。そして、糸佳特製超激辛カレーを何事もなかったように口へ運ぶ。

 ――え、左手???


 ……いやいや。ちょっと待って!

 と我に返ったときには、美歌が手に取ったカレーは既に口の中へ入ってしまっていた。


「うわ〜、美味しい〜! 糸佳ちゃん、本当に料理上手だね〜?」

「はいです! 霧ヶ峰さんに喜んでもらえて、本当に嬉しいです!!」

「あ、あたしの名前、長いから美歌でいいよ?」

「はい、わかりましたです! 美歌さん!!」

「……そこは『さん』付けなんだね?」


 ……これ、もはやどこからどうツッコめばいいのだろう?

 美歌は何もなかったようにその激辛カレーを食べ始めるわ、さっき気を失いかけていた美歌の表情はすっかり良くなっているわで――


「ん? なんかあった、ナンパ野郎君?」

「……あの〜、そろそろその呼び名、止めてもらえますかね??」


 美歌が不思議そうな顔で僕の方を見る。これでは本気で心配した僕が馬鹿みたいだ。

 でも本当に気になったのは、スプーンを持つその利き手。

 ――さっきまでは右手だったはず。


 ふと横を見ると、真奈海も何かを悟った様子でこちらを伺っていた。

 真奈海のやつ、ポーカーフェイスと言うか、勘だけは本当に鋭いんだよな。

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