簡易軟派裁判所『チロル』

「裁判長! 被告人優一兄ちゃんは霧ヶ峰さんを昨日ナンパしてたんですよ?」

「静粛に!! 被告人ユーイチ。何か言いたいことはありますか?」

「ちょっと待て! 僕はそんなことしていない!! ほら、お前からも何か……」

「…………」


 時刻は間もなく十七時。場所は喫茶店『チロル』。

 『チロル』と言えば閉店は十八時のはずで、それまで後一時間ほどはあるはずなのだけど、今日は店主を務めていたはずの糸佳が『ほらもうお客来ないですよね!?』などと勝手に放棄してしまったため、何ともいい加減な裁判が開廷してしまったのだ。四人がけのテーブルを二つくっつけて、そこに、僕と糸佳が向かい合って座り、僕から見て下手に新住人の美歌、上手に今日も仕事がオフの真奈海が座る。


「原告の美歌さんは肯定しているようですね。よって、被告人ユーイチは……」

「どう見たって寝てるだけだろ! それがどうしたら『肯定』になるんだ!?」

「被告人は誰だって『やってない』って言うもんですよお兄ちゃん!!」

「…………」


 真奈海に至っては学校から帰ってくるなり『あ、面白そう』という理由だけで自ら裁判長役を名乗り出たのだ。なんでも現在絶賛収録中のドラマ(あ、昨晩放送していたあの学園モノドラマのことか)において、今度裁判長っぽい演技があるらしい。クラスの中で簡易裁判のようなものが開かれ、真奈海が扮する学級委員が裁判長をやるんだとか。僕にはそのシチュエーションがどうにも想像し難く、なんだかその話に胡散臭さまで感じたわけだけど。

 てか真奈海のやつ、二日続けて仕事がオフとかそれもそれで珍しいわけで。


「実際やってないんだから『やってない』というのが当然じゃないか?」

「それだと裁判になりませんです! それならそれなりの証拠を見せてください!」

「静粛に!! でもまぁそうは言っても、日頃の行いからユーイチは……」

「…………」


 ちなみに202号室の新住人、美歌はさっきからぐうぐう寝ている。

 先程から僕がツッコミを入れまくってはいるが、人の話を聞く耳など一切持っていないようで、完全に無視となっている。まぁ寝ているんだから元々聞こえてさえいないのだろうけど。

 てか誰のせいでこんな状況になったと思ってるんだ!??


「あのなぁ〜真奈海。どこの世界に『日頃の行い』から判決を言い渡す裁判長がいるんだ?」

「そんなの、どこにでもいるんじゃないかな? 人の見かけは重要だよ〜」

「たとえそれが重要だったとしても、それって裁判長の仕事を放棄してないか?」

「ま、ここでの裁判長はわたし。そのわたしにそんな口答えしていいのかな〜? ユーイチ君」

「真奈海……お前…………」


 完全に逆恨みだ。真奈海も僕の言うことなどそもそも聞こうともしない。


「お兄ちゃん話を逸らさないでください! なんで霧ヶ峰さんをナンパしたんですか?」

「糸佳は糸佳でなんで断定なの!??」

「だって、霧ヶ峰さんは美人ですし、真奈海さんはいつも可愛らしいですし……」

「? ……何の話だ??」


 気のせいだろうか。糸佳の顔は若干赤らめているようにも感じられる。


「お兄ちゃんはこんな女子たちに囲まれて、本当に何も感じてないんですか!?」


 ……お〜い。糸佳……?


「イトカのお兄ちゃんは、これからもずっとお兄ちゃんなんですよね!??」


 ……………………?


 一瞬喫茶店『チロル』に沈黙が流れる。が、それを破ったのは一つの大きな欠伸。


「……ふぅわ〜ぁ〜……」


 美歌のお目覚めだ。まるで寝起きの猫のように一周くるりと見渡すと、目をぱちくりさせながら静かに今の状況を確認している。そもそもの原告役のはずが一番の他人事なのだ。


「……あ、お兄ちゃん。そろそろカレーライス作り始めますね」

「あ、わたしは地下のスタジオ借りるね。糸佳ちゃん、カレーできたら呼んでね〜」

「…………」


 先程の裁判は結局なんだったのか。結局判決も出ないまま閉廷してしまった。


「……管理人さん。どうかしましたか?」


 その原告はまるで何もなかったかのように、僕の顔を見つめている。その顔を色で表現するなら、真っ白。本当に疑問符だけを僕の顔にぶつけてきて、僕をただただ困惑へと導いていた。


 本当に何なのだろう……?

 美歌は無言のまま手元にあったオレンジの皮を右手でむき、それをそのまま頬張っている。

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