女優、春日瑠海
その後、仕事から帰ってきた父の話では、『203号室を空けておきたいから、明日には管理人室へ引っ越しなさい』とのことだった。どうやら両親の意向としては、現在203号室に住んでる糸佳を、管理人室の隣である101号室へ移動させ、最終的に203号室を空けておきたいんだそうだ。僕が住む予定の管理人室の隣は、どこの誰だかわからないお嬢様よりも、身内である糸佳に住まわせたほうがいい、そういう判断なのだという。
その判断も当然間違ってはいない。一理ある。だけど……。
そもそもの話、僕と糸佳だって――
夕方、自分の部屋である101号室を片付けつつ、ふとテレビを付けた。
間もなく十八時半。この時間で番組が切り替わるため、直前にCMが流れ始める。
流れ始めたCMのひとつ目では、僕もよく知る清純派女優が映っていた。
清々しい音楽と共に、青空が広がる海辺のシーン。
砂浜で麦わら帽子を被った女子高生が、すたすたと前を走っている。
肩くらいまで真っ直ぐ伸びた後ろ髪がきらきら輝き、すっと目に焼き付けてくる。
追いかけっこをしてるのだろうか、時々振り返るその笑顔に優しい瞳が宿っていて
ようやく追いついた瞬間、彼女は悪戯な顔でこう囁いてくるんだ。
ねぇ。私とキスしよっか――
胸を撃ち抜かれるような言葉の後に、チョコレートのパッケージが映し出された。
こんな素敵な彼女と一緒に、砂浜でチョコレートを食べたい。
女優、春日瑠海には、そう思わせるだけの魔法の力が、確かに存在していた。
僅か十五秒のCMの中に、その愛くるしい匂いをぎゅっと押し込めてくるんだ。
春日瑠海。小学六年の頃に子役ながらも連続ドラマの主演に大抜擢され、それ以来、国民的清純派女優として確固たる地位を手にしている。糸佳の母親の事務所の看板スターでもある。僕もその当時はテレビに映るその姿に憧れを抱き、自ずと追いかけていたのも事実だ。テレビの中にいる同じ年の女の子が、常に微笑みかけてくる。落ち込んだ時も、その笑顔に何度も助けられた気がする――
ふぅ…………
CMが終わると、僕は程なく深くため息をついた。
「なによユ〜イチ! 溜め息なんかついてくれちゃって〜!?」
つい先程まで前方にあるテレビから聞こえてきていた声が、ハウリングするかのように真後ろから聞こえてきた。糸佳の声ほど高くはないものの、それでも十分甲高いと思えるくらいの声。僕は慌ててドアの方へ振り返り、その声の主を確認する。
「なんだ。いたのかよ?」
「てかわたしのCM観た後に溜め息って、それかなり失礼じゃない〜?」
「…………」
春日真奈海。チロルハイムの201号室住民。瑠海は真奈海の芸名だ。
先程のCMの顔と違う点と言えば、主にそのヘアースタイルかもしれない。CMでは長く伸ばしていたその髪を、普段はヘアゴムでさっとまとめていて、見事なまでのポニーテールが完成している。真奈海本人曰く、『これだけで十分な変装になるから』とのこと。実際、学校へ行くときもこのポニーテールで出かけている。
それともう一つは……。
「お前がその眼鏡をかけてるってことは……今日の夕食は焼きそばか?」
「おっとおしい! もうひとつのお好み焼きの方だよ〜!!」
「そっちか……」
今晩の夕食の献立が絞られた理由は、真奈海の眼鏡の色にある。今日真奈海がかけている眼鏡は黒縁のメガネ。つまり伊達眼鏡ではなく、正真正銘の眼鏡だ。真奈海はこれとは別に、ピンク色の伊達眼鏡を付けている時がある。そちらはコンタクトレンズを付けている時に用いるもの。要するに仕事用だ。
仕事のない日は、コンタクトレンズをつける必要もないとかで、目立たない黒縁のメガネをかけている。実のところ真奈海はコンタクトレンズが大の苦手なのだ。
普段仕事で多忙な真奈海は、およそ仕事のない日に食事当番となる。
つまり――
「だから今日はわたしの手料理によるお好み焼き送別パーティーだよ〜!」
「……すまん。すっごく、不安しかない!」
「大丈夫だよ〜。いつもと何も変わらないお好み焼きだしね〜」
「それつまりいつもどおりってことじゃんか!!」
そう。食事当番が回ってくる回数が最も少ない真奈海の手料理レパートリーは、お好み焼きか焼きそば。その二択である。それ以外の選択肢など存在しない。存在しうるはずもない。特に大阪出身というわけではない真奈海のはずなのだが、『手軽に作れるから』という真奈海の超個人的な謎の理由により、真奈海が食事当番の時は必ずこの二択なのだ。
国民的清純派女優様が本当にそんなことでいいのだろうか……?
もちろんそんなことは、事務所非公開情報だ。非公開に決まってる!
……まぁ僕の溜め息の本当の理由は、そんなものではなかったのだけど……
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