四日目:三月十三日

 三月一三日の朝、祖父の葬儀を終えた浩司は、晴れた冬の日差しの中を岩槻の駅に向かって歩いていた。近頃の太陽の熱は日ごとに強さを増しているように思われる、今日もただ歩いているだけで、じんわりと内側から燻されるような熱さを感じていた。街の様子は昨日とは異なり賑やかだった。浩司の家の近くの田畑にも、駅へと続く道にあるスナックや花屋、理髪店やコインランドリーの前にも、常に一定の人が居て仕事をしたり立ち話をしていた。それは、多くの人にとって既に日常は戻りつつあることを示しているように思えた。


「ちょっと、歩くんなら早く歩いてよ。電車間に合わないよ。」


 先を歩く真琴が立ち止まってそう言った。


「歩くなら歩く、帰るなら帰るでちゃきちゃきしてよ。ってか、何も日曜に帰らなくてもいいのに。」


「そんな急かさなくても電車ぐらいすぐ来るだろ。」


「来ないの、田舎の休日ダイヤもう忘れた?いいから行くよ。」


「……お前は別に家にいてくれてもよかったんだけどな。」


「はー?別に浩司の見送りのために行く訳じゃないし。こちとら来年受験生なんですー。」


 昨日、祖父の葬儀を終え、寺に納骨を済ませると、浩司はすぐに両親に明日帰省するという旨を伝えた。二人とも、もう一日くらいゆっくりしていけばと言ったが、浩司は『地震で店がどうなったか気になるから』と断った。それは紛れもない本心であった。浩司には、二日前に帰ってきた時のような実家から逃げ出したいような思いや、それと相克する義務感のようなものは既に感じていなかった。


 実家に対する居心地の悪さは未だに払拭できない。父と母、祖母の関係性はやはり歪に感じるし、フリーター同然の自分の生活に引け目も感じる。しかしそれは、浩司にとって実家の全てではなくなっていた。だから浩司が東京に戻るのは、実家から逃げ出すためでも、またダラダラとした日常に縛られるためでもない。この三日間で得た答えを、実践するためであった。


 両親の次は、祖母に明日出立することを伝えた。祖母は、大袈裟に驚いた後に畏まって『来てくれてありがとう』とか『身体を大事に』とか、『お祖父ちゃんが見守ってる』とか分かれの挨拶をした。そして浩司に、『大学院でも頑張ってね』と言った。浩司は、流石にそろそろ否定した方がいいのか考えたが、結局何も言わずに祖母の母屋を出てきた。祖母の思い込みがどうやっても自分をそういう方向に曲げてしまうのなら今何を言っても意味はないし、何よりこの思い込みを放置することで、自分がいない間に話がどこまで膨らむかに興味が湧いたのだ。これで、次に帰ってきたときに自分はノーベル賞候補とか総理大臣候補にでもなっているかもしれない。そこまで行けば、浩司はこの話も笑い話として笑い飛ばせるような気がした。


 茂叔父に明日東京に戻るということを伝えると、特に驚きもせず『そうか』と一言言ったきり去っていった。もちろん、もう『会社に来ないか』という冗談めいた誘いを受けることも無かった。豪快、という言葉が似合っていた茂叔父だったが、別れ際は全てに興味を無くしたような雰囲気で、浩司はなんだか薄暗くじめっとした影が茂叔父に張り付いたような気がしていた。


 浩司達は踏切を渡った。田園や住宅、寂れた夜の店が並んでいた田舎町の風景は、駅に近づくにつれ徐々に道幅の広い通りと雑居ビルが立ち並ぶ街中らしい雰囲気に変わっていく。東京と比較しても、洗練さでは都心に遠く及ばず、雑然さや生活環では下町に及ばない中途半端な街並みだ。しかしこの街並みの余白こそが、この街が、長い間に様々な人を見送ったり迎えたりしてきた証に思えた。


「そういえば……お前、大学どうするんだ。」


 浩司は前を行く真琴に尋ねた。


「なんで?別に変わらないよ、今までの志望通り。」


「いやさ……昨日、父さんと話しててさ。俺達に自由にやれって言ってたんだ。だから、真琴が医学部目指すのも、その、周りの影響だとしたら……。」


「……ふーん、お父さんとそんな話してたんだ。」


 真琴は、にやにやと笑っていた。浩司は、昨日火葬場から斎場に帰り着いたとき、泣き腫らした赤い目を真琴に見られていたのではないかと思うと、顔から火が出そうな思いだった。


「うん、まあ。だから、今ならまだ志望変更もきくし、他にやりたいことがあるんだったら……と思って。」


「別に。まあ、確かにお医者さん目指すのに周りの影響はあるかもだけど。でも、人を助けたり幸せにしたいって思ったのは本当だから。今回の地震で、むしろ強くなったかも。だから、別に私、自分が不自由だなんて思ってないよ。」


 それは、父が話した事と全く一緒であった。自分が父から諭されるより前に、自力で同じ答えに辿り居ついていた妹を見て、浩司はつくづく自分が出来の悪い兄貴だと自覚して、内心苦笑した。


「そんなこと考えてたんだな。」


「何が。」


「人を救ったり幸せにしたい、って。お前にも夢があったんだな。」


「そりゃあ。それくらいの夢、あるよ。だって、目的意識くらい無いとさ、勤まんないって。勉強も、お医者の仕事も。」


「そうだな。確かに俺も、父さんの忙しさ見てたら、自分には勤まんないって思うわ。」


「それわかる。」


「いつだっけ。なんか、凄い時に呼び出されたときあったよな。」


「えー何だっけ――。」


 浩司と真琴は、様々な思い出を話し合った。いつだったか年末か正月の深夜に父が病院から呼び出しを受けたこと、母が文句を言いながら何度も父を送っていったこと、そんな二人の苦労を尻目にこれ幸いとばかりに二人で深夜まで対戦ゲームに興じていたこと、酒の抜けきらない頭で父が夜通し働く一方で自分達はゲームでさえ徹夜に耐えきれなかったこと、そして翌朝帰宅した両親にその姿を見られ叱られたこと。そして、遠い大人の世界に思えた父の姿だったが、子供の頃は自分も大人になれば自然とそうなると疑っていなかったこと。


 二人は岩槻の駅舎に着いた。真琴は近くの図書館で勉強らしく、ホームに上る階段の前で別れることになった。真琴は持っていた手提げの中からビニール袋に包まれた紙箱を取り出した。


「これ、昨日の亀の家の弁当の余り。今日の昼に持たされたんだけど、私これ好きじゃなかったからあげる。」


「え、そんなのあったの。俺、母さんの弁当持たされたんだけど。」


 浩司は家を出る前に、母から今日の昼にと手作りの弁当を持たされていた。この歳にもなって弁当なんて、とは思ったが、気持ちは嬉しかったし金銭的にも助かるのは事実なので特に何も思わず受け取っていたのだ。


「ふーん、よかったじゃん。どうせこっちは日持ちするし、お母さんのお弁当、味わってあげなよ。」


「……うん、そうするよ。」


 浩司は真琴を見た。真琴は、用が済んだからさっさと行け、とでも言いたげに手を腰に当てふんぞり返っている。浩司には、どうしても真琴に言わなければいけないことがあった。祖父の人生の事、祖父が抱いていた気持ちの事、そして祖父が真琴を間違えたときの事だ。


「あのさ、実は――」


 浩司は、纏まらない言葉で祖父の人生を話した。祖父が犯した罪の事は深く掘り下げなかったが、それ以外は浩司の知りうる全てを話そうとした。全てを話して判断を委ねるのが妹のためだと思ったからだ。真琴は何も言わずに聞いていた。話下手な浩司に殊更寄り添うでもないが、早く話せと急かすでもない様子で聞いていた。


「――だからさ。お祖父ちゃんはきっと怒ってなかったって、今は思う。」


「……そう。」


 全てを話し終えたとき、真琴は頬に手を当て考えるように俯いていた。


「浩司があんなこと言わなかったら、お母さんに叩かれることもなかったのに。」


「それは……ごめん。ほんとごめん。」


 真琴はしばらく浩司を見た後、尻に軽く回し蹴りを当てて『これでチャラ』と言った。本人的には軽くのつもりなのかもしれないが、スポーツで鍛えられた体幹での蹴りに浩司は少しよろめいた。


「浩司は、これからどうするの?」


 真琴が尋ねた。浩司は手で膝を支え、尻の痛みを引かせながら答えた。


「少なくとも、今いる店の片づけまではきちんと手伝うよ。なんだかんだ世話になったし。でも、その後は辞めるつもり。」


「辞めてもまだ東京にいるの?」


「いや、東京も離れると思う。」


「ふうん。じゃあさ、住んでる家ちょうだいよ。どうせ本も沢山ため込んでるんでしょ。」


「……お前の志望大、慶応じゃなかったっけ。新宿じゃん。うち、千代田区だぞ。」


「いいじゃん、地下鉄乗ればすぐじゃん。」


「いいや、お前は朝の東京を分ってない。初心者は大人しく大学の近くで家借りるべきだ。」


「ケチ。」


「本ならいくらでも持ってっていいから。」


「じゃあいいや。……で、仕事辞めてどうするの。」


「それは――。」


 浩司が言いかけたところで、駅のホームのベルが鳴った。時計を見ると、もう電車が入る時刻であった。浩司は、言葉の続きを言わなくていい事に安堵した。その質問にもし答えるなら、それは今後の方針と言うことも出来ないような不明瞭で漠然とした答えにならざるをえなかった。


「じゃあ、元気でな。受験頑張れよ。」


「あ、うん。」


 浩司は手を挙げて真琴に別れを告げると、駅のホームまでまっしぐらに駆けた。浩司が電車に乗ったギリギリのところでドアが閉まった。車内には行きと同じように疎らに人が座っていた。休日にしては人が少ないと思ったが、それは都心で予想される交通の混乱を思えば仕方のない事であった。東北と違い、何事も無かったかのように思えるこの関東でも、然るべきところでは日常を取り戻すための戦いが今も続けられているのだと感じた。


 浩司は席に座り、これからの事を考えた。まずは自分も、その日常を取り戻すための戦いに勤しむこと。自宅を整理し、古書店の散乱した本を並べ直し、店主の爺さんの手伝いをすること。そうして世話になった店と東京への筋を通す事。そして、その後は――二ノ宮に会いに行く。貯金を全ておろして福島に行き、そして昨日答えられなかった祖父の人生の意味を伝えに行く。その後の事は何も決まっていない。ただ、自分も父や祖父と同じように、誰かを助け、幸せにするために人生を使おう、と決めていた。どうすればいいのかはまだ分からないし、食うに困って古本屋の店員に逆戻りするかもしれない。だがそれがどんな方法になるにしろ、その方法を考え努力し続けた先に、祖父とも、父とも違う、自分自身の人生を誇れる日が来ると信じたかった。


 不思議と、浩司には大きな不安が無かった。何故なら父も、祖父も、自由に生きて、その生き方を貫いたのだ。二人の血を引く自分や真琴にも、その素質は十分にあるように思えた。浩司があんなにも恐れ、自分の出来の悪さを強調するものとしか思っていなかった家族との繋がりは、今は浩司に過去から連なる家族の生き方への深い尊敬と、その流れの果てにいる自分自身へ誇りをもたらすものとなった。


 浩司は振り返って、軽やかに後ろに流れていく田園風景と、遠くなる岩槻の街を見た。遠い昔、大学進学で岩槻を出る時にも同じような景色を見ていた気がした。時間が止まったような街と景色は、いつまでも変わらずに自分を見送ってくれていた。


 そして眩しいほど輝く日差しの中で電車は線路を鳴らし、東京へと続く赤茶けた道をひた走っていた。




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