目標

 部屋に来た父は、救急箱から消毒液を出した。長袖Tシャツの左ひじのところが少し赤く、それに左膝を擦りむいている。

「転んだの?」

 ぼくはDSゲームのスイッチを切った。

「そう、少し遠出したら曲がり角で、自転車に乗って犬の散歩をしているじいさんとぶつかりそうになったんだ。そして互いが転んだってわけだ。自転車で犬の散歩するほうがわるいんだが、こっちはじいさんの介抱したりと、参ったよ。遠出したのもわるかったかもな」

「おじいさんのけがはなかったの?」

「ペダルと重なってくじいたのか、足をびっこ引いていたが、大丈夫といって謝ってた」

「犬は平気だった?」

 父は消毒液をつけた脱脂綿に膝に当てると歯を食いしばった。

「大丈夫だ、小柄な柴犬で瞬間に逃げただろうな。リードが延びるやつだったし。六十後半のじいさんも自転車を飛ばしていた感じだった。明後日、島田の市民マラソン出るというのに」

「また出るの? 先々週もどっかの出たじゃん」

「趣味だからな、春と秋は大会が多いし、けがをしていられないんだ」

 父のそのがんばりには感心する。母もそう思うようだが、けがのないようにと何度もいっている。一家の大黒柱が仕事に行けなくなると困るからだ。

「このけがは母さんにいったの?」

「黙ってるさ、すぐ二階に上がったからな」

 血は膝のほうが目立っていたが、消毒したらピンク色になった。

 でもすぐに血がわき出た。

「ばれたら、大会出るなっていうよ」

「黙ってるさ、これくらいなら」

 父は膝とひじに何度も脱脂綿を当てている。

「ジャグリングを教えてもらえる?」

「これじゃダメだ、ひじを曲げるし。大会を優先したいから、わるいな。アドバイスくらいだな」

「それでもいいよ」

「三つのジャグリングは突然出来るんだ。その代わり毎日練習しないとならない。本当はジャグリング専用ボールがいいんだけど」

「専用のなんてあるんだ」

「ああ、一個八百円ほどするがな。それだと重くて落ちても転がらない。ボールだとあっちこっちいくから拾うのが面倒だろ。それか軍手やくつしたを三組用意し、それで練習も出来たぞ。高校のときはそれでやっていた。そんな転がらなかった」

「へー。くつしたを用意してみるよ」

「軽すぎるかもしれないけど練習にはいい。あと壁に向かってやれば球があっちこっち行かなくてすむからさ」

 父は消毒を終えるとバンソウコウをはり、上下ジャージに着替えた。そして夕飯を食べに一階へ下りた。

けがをしても大会に出るとはさすがだ。ぼくもジャグリングをがんばるしかない。

 くつしたを三組そろえ丸めた。押入れの戸を壁とし、投げると転がらなかった。これならいいかもしれない。それにくつしたは軽くつかみやすい。

 でも三つは出来ない。毎日というが続くだろうか。三カ月は掛かるのかと思うと、なにかにそんな続けたことはなかった。

 ジャグリングなら続きそうだけど。宗太もやればいいが興味はないという。だれかほかにも挑戦していれば励みになる。月曜はクラスメートにいないか聞くことにした。

 くつしたを放っては落ちる繰り返しをした。動画ではボールを八個投げるジャグラーもいて、どうやっているのかと何度も見た。

 基本はボール三つから始めたという。その基本がまったくダメだったがやるってやる。

 風呂から出るとぼくの話しが聞こえた。

「やっぱおれの息子だ……」

 洗面所で体をふきながら聞いていた。ジャグリングに興味があることを話している。

「でもそんなことより勉強に集中してほしいわよ」

 と母がいっている。

「いや、おれはそういうやる気があるほうを伸ばしたほうがいい。それが仕事になるかもしれない。おれみたいなサラリーマンじゃつまんないよ。つくづく思ってる」

 ぼくは洗面所の鏡を見ながらだった。少し伸びた髪、細い目は父に似る。上唇が厚いのも父と同じだ。ジャグリングもそうだし、つまりぼくは父と同じ趣味なのか。でもマラソンは嫌いだ。そこが違うし、これから好きになるとは思えなかった。

 ぼくはパンツとシャツを着ると二階に上がった。母は勉強にうるさいが、父はそんなことをいわないので自動的に父が好きだ。

それにマラソンにがんばるところもすごい。明後日は大会なのに明日も走るなら本当に好きだと思う。寝巻きに着替えて机に座る。

宗太に借りたワンピースの単行本の間に小さい原稿用紙が二枚あった。

「なんだっけ?」

 とつぶやき、一昨日に借りた本と思った。予定長を出し調べると、『小学校の思い出を書くこと、十二月十五日まで』と。

 これは卒業アルバムに載せる作文だった。ぼくは頭に手を当ててのけぞった。一、二年のときはなにかあったかと思い出す。

やはり給食だ。かぼちゃが出るとまずくてゴミ箱に隠れて捨てていた。グリンピースもそうだ。それを先生に見つかり、食べ物を捨ててはいけないと、くどくいわれたのを覚えている。外国の子供たちは食べ物がないとか、ゴミをあさって食べているとか自分には関係ないと思っていた。でもいまはわかっている。五年のとき、担任が持ってきたDVDの視聴授業があった。恵まれていない外国の生活を見た。やせた子供が車によってきて花を売っていたり、なにかを欲しいと手を差し出している姿を見て、口を開けてしまった。

本当に食べ物がないのだ。ぼくより年下の子供が自分で食べ物を恵んでもらっている。ぼくはなんでも食べられることが当たり前だった。とてもショックを味わった。きょう食べたカレーなど食べたこともないかもしれない。

 それからはゴミ箱には捨てずに持って帰り、途中にいる犬に上げていた。本当は恵まれない子供たちに上げたかったがむりなことだ。

嫌いなかぼちゃでもおいしそうに食べてくれそうだ。そんな子供たちは好き嫌いがない感じもした。

 三、四年はプールが嫌いだったが泳げるようになると好きになった。小二のとき鼻から水が入るとプールが嫌いになった。

 三年の夏休み、宗太にコーチされると簡単に泳げた。息継ぎのタイミングを教えてくれた。『宗太のコーチならみんな泳げるよ』といったら、将来はスイミングのコーチになりたいと照れていた。

 それがそのときの思い出だ。

五、六年は、五年の宿泊訓練のときに宗太とけんかして一カ月以上も話さなかったことが、一番の思い出かもしれない。原因はカレーを各班で作るのだけれど、ぼくと宗太は同じ班で、肉なしカレーにしようといってきた。ぼくは『なんで入れないんだよ』といえば、宗太は『大会が近いからだ』という。

水泳大会が近いからって、肉を入れたくないならそれを食べなければいい。でも宗太はエキスが入るからダメだと。班員も反対で肉を入れて、宗太は外して食べていた。宗太は入れないことに一緒に主張してくれると思ったらしく、それからぼくへのむしが始まった。

大好物のカレーに肉を入れないとは、ラーメンにチャーシューがないのに当てはまる。ぼくはけんかとは思っていなく、宗太に話そうとすると逃げてしまう。それが一カ月くらい続いた。そしてある日突然、『ごめん、弘ちゃん。大会のタイムがわるかったもんで肉のせいにしていた。コーチがお前たちはまだ体が出来てないから肉を食えといったよ。本当は食べたかったけど、父さんがうるさかったんだ。だから……』と。ぼくは『ぜんぜんいいよ。またゲームとかやろうぜ』と仲よくなった。これがいまのところ一番のニュースと思う。

 でも六年間の思い出では、けんかと給食はダメではないか。それなら宗太に教えてもらい泳げたことかもしれない。それなら親友との話しで書けるしマスがうまる。忘れるといけないから原稿用紙に『親友の水泳コーチ』と題名だけ書いた。

 父のパソコンの机に座った。机に置いてある十一月のカレンダーを見ると、日曜に丸のしるしがあり『島田マラソン』と書いてある。

十二月も赤丸があって『駿河マラソン』だ。

カレンダーをめくっていくと月に一度大会が書いてあった。すごい父だ。三月はぼくの卒業式でもあった。あと四カ月かと思う。

中学はどうだろうか。しっかりと宿題忘れずに出来るのか。吉川先生が宿題はよく出るし、テストもたくさんあるといっていた。

それに部活にも入らないとならない。工作部やマンガ部などあるのか。ぼくはそんな部活に入るつもりだし、それなら毎日楽しみでもある。ジャグリング部は聞いたことがないのでないだろう。

 もしあればどうだろうか。マンガかジャグラーだ。やっぱジャグリングに入る。三つが出来たら四つに挑戦するからだ。それがとりえになり、まわりをびっくりさせたい。父も四つ出来たといったのも励みになった。とりあえずスペシャルカレーのために歯を治すのと、ジャグリングが出来ることをいまの目標にしていく。

 ぼくは丸めたくつした三つを持って投げた。落ちるとまた投げる。

「おっ、やってるな。イカカレーもなかなかうまかったな」

「ぼくもそう思ったよ。ねえ、中学にジャグリング部ってあるの?」

 父は風呂に入るため下着を出している。

「それはないな、なぜならそんな大会もないからな」

「そうか、じゃマンガ部は?」

 ぼくはあぐらでボールを投げては落としている。

「それもない、美術部ならある」

「それは風景とか書くの?」

「んー、風景もそうだし、想像しながらなにかを描いたりもするだろうな。でもいまじゃ、パソコン使ってのデザイナーが仕事になってるから、そんなクラブもあるじゃないか?」

 父はパンツとTシャツを持つとひじを気にしている。

「ふーん、マンガクラブがいいのに」

 中学になると遊び感覚のクラブはなくなるのか。

「ジャグリングやマンガがないなら、美術部だとなんかつまらなそう」

「ここらで体を使ったのはどうだ?」

 父は走るポーズをする。

「それは嫌だよ」

「まあ、好きなのを選べばいいさ」

 といい、部屋を出た。マンガもジャグリングもないのなら、部活をやらずに自分でジャグリングを公園でやればいいのではないか。

母がいうには部活は強制みたいだ。やりたいのがない場合はどうすればいいのか。ぼくはDSのスイッチを入れた。


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