歯医者

 学校からの帰り道だった。ぼくは歯医者に行くため、途中まで宗太と歩いていた。

「へー、弘ちゃんとうとう行く決心がついたの」

「注射がないといったし、キーンも嫌だけどまた痛くなるのもあるし、それを母さんから散々いわれて」

 堀江歯科は次の角を曲がるとある。宗太の家は曲がらずまっすぐだった。

「あんな嫌がっていたのに、母さんは伝えるのがうまいんじゃないか?」

 宗太がニヤッとして丸い目が細くなる。

「うん、でも自分の経験とかもいうし、それにカツカレー食えなくなるのも痛いよ。完全に終われば、お祝いでカツにハンバーグ、から揚げがカレーに載る。それにジンジャエールがつくんだ」

「それもいいな。もし歯医者をさぼると夕飯はなんだ?」

 曲がり角に着いた。

「なんだろう、それはいってなかった。ご飯とのりやふりかけ、卵ご飯かも」

「それならカツカレーだよ。じゃ、歯医者がんばってな」

「おお」

 宗太に力強く手を上げた。何週ぶりだったかと、ぼくはサイフから診察券を出す。裏を見ると九月二十二日から行っていない。さぼっても怒らない先生でそこは前よりいい。でもこんなさぼったから少しは説教をいわれるかもしれなかった。

 ぼくは恐るおそる戸を開けた。受付けにいる女の人がニコッとした。

「あの……久保田です」

「はい、診察券と保険証ある?」

「えっ、保険証?」

「月が変わっているからね。今度でいいよ」

 ぼくはスリッパをはき待つことになった。女性が一人待っている。

予約制だけど来るたびにだれかいた。四時まで十分はある。歯医者は待っている間が恐怖だ。なにをされるのだろうかと、頭で考えていた。母の話しでは削って金属を入れるといっていたが。

 診療室のドアが開き男の人が出で来た。片手でほおを押さえている。もしかすると抜いたのか。ぼくはだんだんとお腹が苦しくなった。

 女の人が呼ばれた。次は自分だ。

 緊張しながら十分くらい待つと女の人が出て来た。あー、さぼったことをなんていわれるのだろうか。

「久保田君」

 ぼくはゆっくりと診察室に入った。先生と目が合った。

「よく来たね、カルテでは九月以来だったから、また一からやんないとね」

 大きいマスクをする先生は目を細めてやさしくいった。ぼくは謝りたくなった。

「来なくてごめんなさい」

「ちゃんと勇気を出して来たんだから、また一からだけどがんばろうね。じゃ座ってね」

 先生は怒らなかった。ぼくは少しほっとして腰掛けると、電動でいすがゆっくりと仰向けに倒れた。

 口を開けると先生がのぞいた。なにかむずかしい言葉をいい、助手の女性が動いた。そして先生は器具を口に入れた。

 それは削るキーンだった。ぼくは耐えるしかない。

たまったつばを助手が器具で吸う。そしてまたキーンだ。何度か繰り返すと、

「お口をゆすいでね」

 いすが戻る。二度うがいをすると、またゆっくりと倒れた。

 もう一度うがいをするとキーンは終わった。そしてなにかを奥歯に入れた。一瞬しみたのでセメントだろうか。治療はこないだと同じなのでそうだろう。

でもその次から行かなくなったのだ。

「はい終わったよ、きょうは二本削ったし、今度は型をとるね。ちょっと穴が大きくなったけど、がんばって通ってよ。そうしないとまた大きく削ることになるからね」

 それを聞き、なんとなく治療の段階がわかった。

「はい、今度は来ます」

 なんたってスペシャルカレーが待っている。

「途中で来なくなってしまうと、お金も掛かるし、虫歯も進行してしまうの。だからしっかり治したほうが痛みもないから」

 助手の女の人も付け加えた。母と同じことをいったので正しかった。

「あ、ありがとうございました」

 治療が終わり、なんだか気が晴れた。胸のもやもやというのか、これで母から説教もなくカツカレーが食べられる。

 待合室に下級生の男子がいた。落ち着かず待合室でうろうろとしている。

「ねえ、堀江先生はやさしいから大丈夫だよ」

「ほんと?」

 やっぱ不安だったらしい。初めて来たのかもしれない。

「本当だよ、ぼくは九月からさぼってて、きょう来たら怒られなかった。それにキーンというやつも、きょうはそんな痛くなかった。四年生か、ぼくもそのころから通ったし、まだ怖いよな。ぼくでも怖いけど、やっぱしっかり治したほうがいいみたい」

 いままでさぼっていたくせ、自分は偉そうにいっていた。

「ふーん、ぼくは歯を磨かなかったりしたから虫歯になったと思う」

「ぼくだってそうだよ、途中でさぼると、また最初から治すらしいから、さぼるのはやめることにした」

 そのとき名前を呼ばれた。

「きょうは母さんから電話なかったわよ、またしっかり通ってね。えー、二千七百四十円です」

 ぼくは封筒から三千円出し渡した。

「来週は水曜の四時でいい?」

 ぼくはうなずいた。

「じゃ、保険証も持ってきてね。書いとくよ」

「ありがとうございました」

 といい、四年の子に手を上げた。ぼくはいい上級生を演じてしまった。本当はどうしょうもない宿題を忘れる特技のない六年なのに。

 きょうはセメントを詰めたのに痛くならない。というか、痛かったのは別の歯医者だ。やっぱ堀江先生がいいのだろうと思う。

 玄関は鍵が掛かっていた。ということはカツカレーが遅くなる。

そう思って鍵を開けていると、母の声がした。

「弘人、歯医者はどうだった?」

 手に買い物袋を持っている。

「どうって、まあ堀江先生に怒られないだけよかった」

「よし、しっかり行ったね。そうだ、カツが売り切れだったの。イカフライで我慢してよ」

 玄関に入ると母がそういう。

「イカフライ?」

「フライだから合うよ」

 母はキッチンへ向かった。

「合うとかじゃなくて、イカとカツの違いだって。なんだー」

 キッチンテーブルに座るとうつ伏せになった。

「絶対おいしいから」

「カツと思ってたから、まだエビフライやハンバーグのほうがいい。イカなんて固くて食いづらいよ」

「それがここのはやわらかいの、ちょっと食べてごらんよ」

 母がパックのまま、五個ある細長いイカフライを差し出す。ぼくはイカリングのフライを想像していたが違った。

「ほんとだ、なんでやわらかいの?」

 イカリングはけっこう固く虫歯に当たると痛かったりする。

「そこがうちの持ち味でよく売れてるのよ。イカリングから変えた新食品よ。それにまだサクサクしてておいしいでしょ」

「うん、これならいいかも。でもきょうだけだって」

「わかってるわ」

 それを聞き、ぼくは二階に向かった。

 父のノートパソコンを開き、ユーチューブでも見る。ボールのジャグリングをよく見ている。ぼくもテニスボール三つ持って真似をした。二つは出来るが三つは続かない。何度もスロー再生を見ながらやるのだけれど出来なかった。

どういう原理だろうかと。ボールは落ちるたびにあっちこっち転がるので、狭いスペースで練習をやれというが、そんな場所は押入れかトイレだ。押入れは高さが狭いからダメ。トイレはうるさいと母に怒られた。よって部屋だったが、何度もボールが転がる。

 宗太は水泳が特技だし、ぼくも絵など以外に体を動かす特技が出来ないかと思っていた。十日前、学校に大道芸の集団が来た。

 生徒と体育館で見ていると、ぼくはジャグリングに興味が出た。

よし、これを練習しよう、となった。そして百金でテニスボールを買い、ユーチューブでやり方を探し出した。

二つはだれでも出来る。もう一つ増えると転がるのだった。いつも宿題を忘れては正座だ。『すげー、弘人』と、クラスメートを驚かせたかった。

 スロー再生で手元を見ているが、自分では出来ていない。そしてボールが転がってとりに行かないとならない。

「おっ、ジャグリング始めたのか?」

「あれっ、早いじゃん」

 スーツ姿の父だった。時計を見ると六時過ぎだった。頭は七三でやせている。なぜかというと、ジョギングが趣味だった。

「金曜だし、たまには早く帰って来た。おれにもやらしてくれよ」

 父は転がったボールを集めた。そして頭上に投げる。

「あっ!」

 三回はボールがからまった。

「やっぱダメだな」

 といい、父はボールを集める。ぼくは驚きのあまり口を開けていた。

「もう一回だ」

 すると四回は続く。そして転がった。ボールを集めてぼくに渡した。

「なんで出来るの?」

 ぼくはあっけにとられていた。

「高校のころ練習して文化祭で披露したんだ」

「へー、すごいじゃん父さん、なんか感動した」

「そんなことない。四つまで出来たんだけどな」

「えーっ、四つも?」

 まさか父が出来るとは。ジョギングだけでもすごいのに。

「もうちょっと練習すれば三つは出来そうだ」

 そういって、父はスーツを脱ぎ始める。仕事から帰るとジョギングに行くのが日課だった。

「あとで教えてよ」

「ジャグリングはかなり練習しないとならん。それも毎日だ」

「二日に一度くらいやっているけど」

「毎日じゃないとダメだ、脳に覚えさせないとならん」

 父は短パンに長袖のTシャツ姿になった。

「わかったよ、行ってらっしゃい」

 タオルを首に巻いた父は一階に下りていった。

 まさか真面目な父がジャグリングやっていたとは。スーツでジャグリングはなんとも似合わなかったが、これでコーチしてもらえるし、ぼくは助かった。ジャグリングが宿題なら熱中するのにと、都合よく思っていたら、母が出来たといった。

「なんでそんなジャグリングを練習してるのよ。ボールがどかどかと響くんだからね」

 練習後のカレーはうまい。

「なんか自慢が出来るじゃん。父さんジャグリング出来るよ、びっくりした」

「そうなの、わたしは知らなかったわ」

 母は父と食べるので、流し台に立ち野菜を切っている。

「四つまで出来たんだって、すごくない?」

 カレーが載ったイカフライを食べるとうまかった。カレーはフライならどれでも合うのかもしれない。

「へー、でももう出来ないでしょ」

「そうらしいけど、三つなら練習すれば出来るようだよ。あとで教えてもらう」

「静かにやってよ。あっ、歯医者の領収書もらってなかった。いくらだったのよ」

「二千七百ちょっと、カバンに入れちゃった。食べたらお釣りと渡すよ」

「それに今度の予約はいつよ?」

「水曜だよ、早くなったんだ。堀江先生は怒らなかったし」

 舌できょう詰めたところを触った。

「よかったわね、堀江さんはいい先生らしいわ。建物は小さいし見た目が古いけど、今度痛くなったら通うかな」

 学校の健診では堀江先生ではなかった。学校から近いほうなのに、なぜか離れている大きな歯医者だった。それで最初はそこに通っていた。でも余計痛くなって行かなくなった。

「そうしたほうがいいよ、そんなに痛くなかった。いまもだし」

 イカやじゃがいもが治療した歯に当たる。でも詰めたので痛みが減った。

「じゃ、しっかり通いなさい。やっと治す気になったんだ、スペシャルカレーもいつになるのかな」

 母は振り向くといった。

「ジンジャエールもだよ」

「そういうとこはしっかり覚えているね」

「ねえ、歯医者の先生って虫歯になればどうやって治すの?」

「ハハハ、わたしも昔はそんな疑問あったよ。知り合いの先生のとこや自分で出来るとこは治すみたいよ。でも自分で治すのはすごいね、鏡を見てやるんだし」

「洗面所でやるの、それか鏡台か」

「やっぱ先生の仕事場のいすに座って、助手も手伝ってやるんじゃない?」

「それなら出来るよ。歯医者って大学とか出ないとなれないでしょ?」

 ぼくはカレーを口へかけこませる。

「歯科大学をね。相当むずしいでしょう」

「算数や社会とか出来ないとダメ?」

「そうよ、エリートと思う。ブリッヂやかぶせ物や入れ歯を作る歯科技工士なら、図工が得意の弘人に向いてそうだけど」

「ぼくでも歯医者になれるんだ」

「歯医者じゃない、歯科技工士よ。先生はつかないの」

「それも大学に行くの?」

「それは専門校くらいでいいじゃないかな」

「ふーん」

 カレーを食べ終わった。水をぐいぐい飲み、居間のテレビはニュースでつまらない。二階でユーチューブでも見ながら父の帰りを待つことにする。


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