夕飯

 玄関を開けたら腰に手を当てた母が立っていた。

「ただいま」

「なにがただいまよ、またさぼって。予約をいちいち変更しないとならないんだから、なぜ歯医者行かないの。治療代使ってないでしょうね」

 ぼくはくつを脱いでキッチンを通り、居間に入った。

「使ってないよ、ちゃんと封筒に四千円入っているって。きょうは白地図の居残りがあったわけ」

 母がキッチンに来た。顔を見ればみけんにしわがよっている。

「白地図は宿題でしょ、忘れたから居残りなんでしょ。やってないからわるいんじゃないの。そんなの理由にならないの、歯医者がありますからと先生にいえば歯医者を優先する。それを行きたくないからいわなかったんでしょ。弘人の考えはなんでもわかるんだから」

 やっぱ理由にならなかった。いつものようにはっきりいう。

「だからさ、歯医者行って痛くなったときもあるし、薬飲めば痛くなくなるから、お金も掛からないしそれでいいじゃん」

「またそれね、まったく何度話してもわからずやだわ。薬飲んでもまた痛くなるでしょ。その痛みをとるため、治療は痛むけど、あとあと痛くならないの。それが歯医者なの。あんたはまだわからないけど、わたしだって子供のときは歯医者が嫌で何度も行かなかったときもあった。それがあとあと苦労するのよ。早く治していなかったから、抜いたりしたし。わかっているから早目に治さないと、もっと痛い思いをするんだから」

 ぼくはテレビを見て聞き流していた。また説教だ。吉川先生からもされて、女はなぜ説教が好きなのか。

「弘人、聞いてるの」

 母が声を大にした。

「聞いてるって、来週行くからぐちゃぐちゃいわないで」

「来週じゃないわよ、明日に入れたから。あんたのことで電話したとき、明日のキャンセルが出たので四時に入れたわ。ちゃんと行きなさいよ。もし行かなかったら、夕飯なしにする。ちなみに明日は金曜ってことを忘れずに。それにもしかするとカツもつくから」

「えーっ、なんでー」

 毎週金曜は、ぼくの好きなカレーの日だった。

「だから行けばいいでしょう、わたしだってお金が掛かることをしたくないけど、弘人の将来があるから治してほしいの。子供のときに治さないと、ほんと後悔するから」

「だから、痛いからっていってるじゃん」

「またその話しか、まっいいや、明日のカレーはなくなるしね」

 といい、母は鼻歌交じりでコンロの前で夕食を作り出す。

 明日はどうすればいいか。父はなにもいわないのでいいが、母はうるさい。カレーは食べたい。ましてカツがつくなら余計だ。

 テレビを観ていると嫌いな魚の匂いがする。母がにやついているのがわかる。やることがずるい。カレーの前日は嫌いな魚、納豆や煮物、あさりの味噌汁が多い。栄養を考えてというが、ぼくは生臭い魚を特に嫌いだった。いつかはとても臭い魚を焼いていた。それには参って二階に非難した。当然食べない。くさやといっていたが名前の通り臭い。母はこんなおいしいものはないといっていた。父も臭うがうまいといった。あれは猛毒ガスに近かった。

 そんな魚を二度と出さないでくれと何度もいったので、いまのところは出ていない。ここで歯医者に行かないと、母のことだからいつくさやを焼くかわからない。

 母が皿をテーブルに載せた。チラッと見ると細長い魚だ。

さんまだろう。けっこう生臭いし骨も多く、のどに刺さったことがある。だから魚は嫌いだ。月曜は焼肉、火曜はハンバーグ、水曜はから揚げ、木曜はすき焼き、金曜はカレーで土曜が焼きそば、日曜はラーメンでいいと母にいったら『バカ』といった。せっかくメニューを考えたというのに。

「出来たから食べなさい。その前にかばんを部屋に置いてきな」

 キッチンと居間はふすまでつながっている。寝るとき以外は開けっ放しなので母の声は十分に聞こえる。

ぼくはカバンを持って二階に上がった。二階は八畳間があり、そこがぼくと父の部屋だ。ベッドはなく布団を敷いて寝ている。

一階の居間の横に母の部屋があり、たまに父はそこでも寝ている。

母の部屋は鏡台やパソコン、タンスなどあって狭かった。ぼくが小二のとき、アパートからここに引っ越してきた。でも学校は宮川小なので同じ学区だ。中古で買った一軒家だった。住宅ローンを払っているのだからと母がよくいう。

 かばんを開いて教科書やノートを全部出した。白地図はカバンに戻すと、明日の歯医者を思うとがっかりした。なんのための居残りだったのか。いすに座るとのけぞった。

いつから虫歯になったかを思い起こすと、最初は左でよくかんでいた。四年のある日、あめをかんだときにすごい痛みがあってそれから通ったはず。そして治療中に行かなくなった。それから右でかむようになり、健診をすると虫歯が増えていた。いま通う堀江歯科の先生が右から治そうといい、治療が始まった。あめがわるいと思ったが、その前も歯が痛くて寝られないときがあったような。

 歯医者の先生は、虫歯がないのかと疑問も出る。一階から母の声がした。

「早く食べなさい」

 さんまとご飯、味噌汁を食べ出した。

「さんまを食べてカルシウムつけなさい。歯と骨が強くなるし」

 そんなことは初めて聞いた。

「えっ、さんまって歯が丈夫になるの?」

「さんまだけじゃないよ、魚類や牛乳にはカルシウムの成分があって、骨や歯を丈夫にするの。だからあんたが嫌いでも魚を焼くの」

 ぼくは牛乳も好きなほうではない。

「じゃ、魚が嫌いだから歯がわるいのかもしれん」

「そんなことではない。あんたが低学年のとき、歯を磨いたり磨かなかったりしたのが原因だね」

「そうだっけ? でもいまは毎朝磨いてるじゃん」

「夜も磨きなといってるでしょ」

「磨くつもりだけど、寝てしまうから仕方がないんだ」

 本音は二度も磨くのは面倒だった。

「だから虫歯になって歯医者に行く羽目になるでしょ。歯が丈夫なら行かなくていいのに」

 ぼくは魚を食べるようにしないとならないのか。

「じゃ、魚を毎日食べれば虫歯にならないってこと?」

「それも違うわ。ただカルシウムをとれば骨や歯が丈夫になるってことで、予防の意味だね。肉よりいいのよ」

「なんだ」

「なんだじゃないの、いま六年生で成長期だからいまのうちに骨を強くしないと、大人になると足腰が弱くなるの。特に日本のスポーツ選手みんな、野球選手やサッカー選手やオリンピックの選手なんかも、親が丈夫にするため、子供のころにたくさん魚や牛乳を食べさせただろうね。バランス的には肉もね」

「宗太も魚を食べるといっていた。水泳をやってるから?」

「そうよ、宗太君の母さんも同じことをいっていると思う」

「でもぼくはスポーツやってないし、絵を描いたりするのが好きだから、あまりカルシウムっていうのいらないじゃないの」

「なら弘人が大人になって画家か漫画家になったとしてさ、依頼が来たとする。歯が痛くて痛くてどうしょうもないとき、明日まで描いてくれといわれた場合困るでしょ」

「たまたま痛くなるかな、それだったならノーシン飲めば治るしね。そうするよ」

「バカね、そのときは治っても、また次に痛むでしょ。薬を何度も飲んでいると、胃を痛めるし副作用もあるの。だから歯医者でしっかりと治して、魚をたくさん食べて歯を食べたら磨けば予防となり虫歯にならないのよ」

 ここであれこれいっても、母の説教じみた説明が多くなるだけだ。

「わかったよ、さんま食べるって」

「小魚が一番カルシウムがあっていいんだけどね」

「えっ、小魚ってどんなの?」

「ししゃもやしらす、煮干しやサクラエビなんかいいだって」

 生臭くもないし、しらすや煮干しならへっちゃらだ。

「なんだ、そっちのほうがいいよ。骨も食べられるし、これから骨のないそっちにしてよ」

「それだけじゃおかずにならないでしょ、だから大きな魚にしている。でもそれがいいならトッピングで毎日なにかつければいいか、しらすでも」

「そうしてよ、ししゃもでもいいし」

 それならカルシウムをとれるだろう。両方の奥歯でかめないので手前の歯で食べていた。たまに奥歯でかんでしまうと痛む。やはり虫歯を治さないとならないのか。

「とにかく歯医者に行って完治すること。そうしたらがんばった賞を食べさせてやる」

「なにを?」

「カレーの上にハンバーグとカツにから揚げね。飲み物にジンジャエールもつけてやる」

「食いてー」

「ただし明日行かないと、カレーは食べられないからね」

 母はにやりとした。

「わかってるよ、ところで歯に注射て痛い?」

「痛いけど、あんたはまだしなくて大丈夫でしょ」

「ほんと?」

「注射はほとんど抜く場合だけよ。弘人のは削って金属を埋めると思う。もしそれを治さないと、どうなるかわかる?」

 ぼくの顔の前に母の顔が迫った。

「抜くの?」

「いずれそうなる、だからいまのうちに治せと、わたしはずっといっているの」

 注射だけはごめんだ。

「なんとなくわかったよ、注射がないならよかった。キーンを耐えればいいだけならね」

「注射はないよ、わたしの経験上さ」

「注射って痛かった?」

 抜いたことがあるようで、金属のブリッヂになったと口を開いて見せてもらったときがある。上の奥もそうで母は二度抜いている。

「また聞くの、チクッと最初だけっていったでしょ。弘人の年令じゃ、ちょー痛いかもしれない。わたしは三十ごろだったし」

 母は三十八だったはず。

「八年前ってことは、十二引く八だから、四歳だよ」

「そのころだったね、歯医者でぐずってたし。歯が痛くて弘人の面倒をみたのを思い出すよ。治ってよかったわ。ほんと歯が痛いとなにやっても不愉快だった」

「へー、ぼくはとにかく注射がないならよかった。それなら明日は行くよ」

 といい、味噌汁を飲んだ。さんまを食べきることにした。

「約束だからね、それならカツをつけるわ、それに煮干しもね」

「煮干しはカレーに入れないで」

「そりゃそうよ、まずくなるし。トッピングよ」

 ぼくはうなずき、さんまの骨抜きに専念することにした。

 母の話しで、それでも注射がないなら通うことにした。


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