サテンドール

山田沙夜

第1話 サテンドール

地下鉄を出たら霧がでていた。五分も歩けば服が湿ってしまう。

 霧にぼんやりにじむコンビニの明かりに、傘を買おうか迷い、霧に傘は役にたたないな、と思う。

 すれ違う人も、とくに急ぐようすもなく歩いていた。

 霧の水滴をためた道路の水を撥ねながら車が走り去る。フォグランプを点けている車はない。

 誰かがコンビニに入っていく。傘を買うのかな。イートインでコーヒーを飲むのかもしれない。


 夜の時間が過ぎてゆく。とはいうものの宵の口。鶴舞公園を突っきって歩くことにした。

 霧のなかを人影が歩いてゆく。一人、二人、三人……楽しげに見える。夜霧の中を歩く、滅多にできない散歩だ。わざわざ公園を歩くことにした人もいるだろう。

 夜に沈む竜ヶ池のほとりについた。少し息がはずむ。



「ブルージー」のドアに明かりが灯っていた。


 ほっとしてバッグからハンカチをだし、髪と服の湿り気をポンポンと吸わせた。ハンカチは湿り、髪も服もやっぱり湿ったままだ。

 ほうー、と息を吐き、ドアをそっと開け、すばやく店に入った。

 振りかえってわたしを見た客は、待ち人がいるのだろう。なんだ……とあからさまに残念な顔をして奥のステージへ姿勢を戻す。

 タバコの煙が濃く薄く五人のジャズプレイヤーを包み、客を包み、プライベートをないしょごとにしようと漂っていた。


 今夜はトランペット、テナーサックス、ピアノ、ドラム、ベースのクィンテット。

 On Green Dolphin Streetを演奏している。


 わたしは入り口左手を見た。ここだよ、と父が手を上げる。元気そうな父を見て泣きそうになった。

 よかった。父に会えた。


 父の隣に腰かけると、さっそくマスターが来てくれた。

「やあ、莉乃ちゃん、今日は来てくれたね。ありがとう。今夜のバンドはリクエストができるよ」

 ん……とリクエスト曲を迷っていたら、「そうかい。わかったよ」とマスターはわたしの頭をクシャクシャと撫でて厨房へ行ってしまった。

 バーカウンターには男三人と女が二人、背中を向けてそれぞれが一人の時間を酔っている。カウンターの向こう側で、マスターの息子がシェーカーを振っていた。


 今夜は聴きたい曲が浮かばない。スローなものならそれでいい。

 丸テーブルにはいつの間にか鶏と野菜のパエリア、トマトとグリーンサラダ、フライドポテトが窮屈そうに並んでいて、烏龍茶のグラスが二つ立っている。

 父は酒が飲めず、父といるときはわたしも酒を飲まない。それでも軽くグラスを鳴らす。


 曲が All Blues になった。シンバルのリズムに身体が揺れる。


「元気か?」

「うん」

「紗希は元気だろうか?」

「うん、おねえちゃんは元気だよ……と思う。月に一度、『元気だよ。元気?』ってメールをくれるから、わたしも『元気だよ』って返信してる」

 姉は結婚して男の子二人の母親になった。

「そうか。それならいい。元気でやっているなら、それでいい。……都紀子のことを何か聞いてるか?」

「おねえちゃんの消息不明だったママ? うん、都紀子さんは見つかったって。というか都紀子さんから連絡してきたみたい。パーキンソン病と診断されて、いずれ施設に入ることになるから、その時は保証人になって欲しいっていう連絡だった。おねえちゃんは、とにかく都紀子さんの顔を見に高山まで行ったよ。わたしは甥っ子たちを預かったの。子どもってたいへん」

「そうか、たいへんだったか。高山……都紀子に縁がある場所とも思えんが、俺も都紀子をよく知ってるわけじゃないからな」

「都紀子さんは元気だったそうだよ。まだ目立った症状が見られなかったから、おねえちゃんはほっとしてた。

 都紀子さんには五つ年下の同居人がいたの。都紀子さんの症状が進んで施設に入ることになったら、おねえちゃんに連絡してくるみたい。でもそれが一年先か一〇年先になるのかはわからないと、おねえちゃんは言ってた」

「そうか。都紀子は大変だな。紗希も大変だ」

「同居人さんが都紀子さんを大事にしてくれてるから、おねえちゃんは安心してる。でもおねえちゃんは、都紀子さんのパーキンソン病は家族性かもしれないと心配してる。おばあさんが六二か三でパーキンソン病になったから、おねえちゃんも発症するかもしれないと気にしてた」

「パーキンソン病のことは俺も都紀子から聞いたことがある。母方の家系が持っているそうだけど、必ず発病するわけじゃないからな」

「おねえちゃんは五〇パーセントの確率だと言ってた」

 そのときわたしは、五分五分って誰しもが持つ確率だと思った。可能性は低くても、なるならないは二分の一。

 事故にあうかあわないか、心筋梗塞になるかならないか……たとえ千分の一、万分の一でも、我が身に起こるか起こらないかはいつだって五分五分なんじゃないかって。うまく説明できないから、おねえちゃんには言わなかったけど。

 

 Mersy,Mersy,Mersy がはじまった。望みどおりに少しだけゆっくりと。


 父は結婚をしたことがない。だけど母親が違う娘が二人いる。

 長女紗希の母は城崎都紀子、次女つまりわたしの母は前津紫乃、そう父里崎耀市の戸籍に載っている。

 ほかにも兄、それからおねえちゃんとわたしの間に女の子がいるらしい。けれど父の戸籍には記載がない。兄と姉には戸籍上の実父がいるらしい。

 ……らしい、……ようだ、と父の周辺はとりとめなくぼんやりしている。

 姉もわたしも訊かないし、訊いても父は言わないだろう。都紀子さんも母もよけいなことは訊かないし、言わない。

 

 いいんじゃない、それで。


 姉が大学を卒業するまで、父と姉とわたし、三人家族で暮らしていた。

 ときには母が半年ほど滞在したり、都紀子さんが泊まったりしながらの三人家族。

 母と都紀子さんがふたりとも、わが家に滞在しているときもあった。ふたりは仲よしというわけでもなく、気不味い雰囲気というわけでもなかった。


 ほどよい距離……大人になってそれがわかった。


 母が「莉乃、かわいい」と言いながら、わたしの頭を撫で髪をくしゃくしゃにして額にキスをする。すると都紀子さんもおなじことをして、五つ上の姉まで真似るのだ。

 わたしはそうされるのが好きだった。おとなしく、されるままになっていた。

 幼稚園、小学校、中学、高校……緩く穏やかでときどき賑やかな、わたしにとっていい季節だった。

 いつもちょっとお歳を召したおばちゃんたちが代わる代わるやってきて、姉とわたしの身の回りの面倒をみてくれて、家事も万事おまかせしていた。

 子どもだったから、泣いたり悔しかったりのあれやこれやがあったけど、振りかえれば淡々とした優しい日々だった。

 姉が高校生になって、わたしが中学生になったころ、おばちゃんたちはだんだん来なくなり、気がつけば父と姉とわたしで家のことをするようになっていた。

 一度、父が不在のとき、都紀子さんがふらりとやってきた。

 姉がお茶をいれていて、居間にはわたしと都紀子さん。

 都紀子さんはわたしの横で椅子に腰かけ、向き合うようにわたしの椅子を動かした。そして両手でわたしの髪を上げ、手の甲で頬から額を撫でた。中指で口紅をぬるように下唇を撫で、ゆるい弧にした人差し指で首から顎を撫であげ、唇をそうっと舐めた。

 身体のあちらこちらがうずうずして、わたしは口を閉じ、歯を食いしばった。

「ママ、やめな。莉乃にそんなことするな。莉乃から離れなよ」

 厳しい顔の姉が、盆に三人分のお茶と菓子を載せて立っていた。

 都紀子さんは肩をすくめ、わたしの右手を両手ではさみ、ゆっくり撫でるように離していった。

「だから、やめな。莉乃はまだ中学生だ。こんどやったら、この家を出入り禁止にするよ」

 姉はわたしにやきもちをやいたわけじゃない。都紀子さんに怒っていた。本気で怒っていた。都紀子さんからわたしを護るために。

 わたしは椅子から立ち、姉の横に並んで都紀子さんを睨んだ。

 都紀子さんは不満そうに拗ねてみせ、「莉乃ちゃんの肌って紫乃と同じなんだもの。上品でなめらか、さらりとしてる」と言い、「わたし、紫乃と暮らしてみたいのよ」と言った。

 それから何事もなかったように三人でお茶を飲み、甘いのや塩味や醤油味の姉の好みで盛り上げた菓子を食べ、しゃべった。


 父の手がわたしの頭を撫でてくれる。


 Satin Doll。ピアノだけ……。楽しげに弾む。軽快に早歩き。

 

 母はよくひとりで自己流のステップを踏んでいた。

 父は母に誘われて立ちあがり、母の横で棒立ちになり、父をからかうような母のステップを楽しんでいた。

 母は若く、父は若くなく、母より二〇年上だった。ふたりは親娘のように見えた。

 母は十九でわたしを産んでいる。つまり父は未成年と性行為をしたことになる。

 時代が違う、とはいうものの苦笑いするしかなく、そこに関してわたしは心の隅に悩ましい塊を持ち続けてきた。

 都紀子さんは敏感にわたしの疑念を見つけた。

「わたしが証人よ。莉乃ちゃん誕生シーンに、ヨウさんと紗希の三人で立ち会ったのよ。莉乃ちゃんはまごうことなく里崎耀市の娘だわ」

 都紀子さんは太鼓判を押したが、大学生だったわたしには、どうしても優しい心遣いにしか聞こえなかった。

「疑念の眼差しね、莉乃ちゃん。ヨウさんを挟んだ女ふたりが、そんな身内のように振る舞えるはずがないって顔してる」

 都紀子さんはアハハと豪快に笑った。あのときのわたしは、いったいどんな眼差しでどんな顔をして都紀子さんを見たていたんだろう。

 わたしたち五人は、たしかにずっとチームワークよくやってきた。都紀子さんと母の間に嫉妬が介在していたことはなかったし、父と都紀子さんと母の三角関係のバランスはよかった。

 大人になるとその奇妙さが不思議になった。

 余計なことは聞かない。自分に課した暗黙の了承。

 

 大学の卒業式に母は姿を見せなかった。

 そういえば、姉も卒業式はひとりだった。わたしには「来なくていい」と言った。

 わたしはとくにがっかりすることもなく、うちはこういうものだろう、と思うだけだった。


 卒業式の二日後、夜一〇時過ぎ、電話が鳴った。

 風呂の湯加減をみていたわたしは、好きな時に鳴り止んでね、と電話を鳴かせておいた。

「俺より莉乃のほうが電話に近いだろうに」

 父が電話をとる。

「紫乃か、久しぶり………」父はだまり、「わかった、すぐ行く」と言った。

 受話器を置いてすぐ、父は誰かに電話をかけた。

「ナカちゃんか。こんな時間に悪いが、引き受けてくれないか」

 ナカちゃん。父の古い友人、奥松仲良弁護士だ。急に背筋が寒くなった。顔だけが熱い。

「おとうさん」声が震えてしまった。

「紫乃のところへ行ってくる」

「わたしも行く」

 父は数秒黙って、「風呂の元栓、ちゃんと消してこい」と言った。


 あの年は暖冬だったのか、厳冬だったのか覚えていない。ただあの夜は寒くて、風がなくしんと冷えた。三月なのに冷たい夜だった。

 わたしは母の住まいを知らなかった。でも父は知っていた。いま思えば、いつも父は母がどこにいて、どんな暮らしをしているか知っていた。わたしはそれを知っていたから、母のことを訊いたりしなかった。

 父が平穏なら、母の毎日は上々なのだ。


 新堀川西側南向き一方通行の道路を一〇分ほど走って、父はスピードを落とし、左折を二回、それから川の東側を少し走って、路肩に車を停めた。

 車から降りるとすぐに、ビルや民家の窓ガラスや壁、常緑樹の生垣に反映する赤い光が見えた。

 パトカーのランプなのはすぐにわかった。一台、二台……それ以上。

 母には関わりのないこと、という可能性はないと直感した。

 薄手のダウンジャケットをはおっていたのに、四肢が震え、歯も鳴っていた。

 父は大股に歩き、すぐに路地へ曲がった。わたしも後を追った。

「おとうさ……ん」

 父は振りむかず、右手でわたしを制止した。けれど視界は全貌を見せてくれていた。

 返り血を浴び、右手を血塗れにした中年の男。男を確保している三人の警察官。野次馬たち。規制線を張っている警官たち。スーツ姿で指示をしたり指示を受けたりして動く刑事たち。

 路上に倒れている男と女。素人でもサバイバルナイフだとわかる血塗れのナイフ。そして血溜まり。

 パトカー三台、救急車、パトランプをつけた灰色の車両と白い車両。

 

 血塗れで路上に倒れているのはおかあさんじゃない。おかあさんはさっき電話をしてきたばかりだもの。


 身体じゅうの血が冷えていく。頭が冷えていくと、わたしは冷静になっていった。

 すでに到着していた奥松弁護士が父を手招きした。父の後ろについて奥松弁護士のもとへ行った。

 中年の男が名刺を出しながら父に近寄った。刑事だった。

 路上の男と女は一目で、もう心肺蘇生を必要としていないとわかった。女は母だった。

 そんなことはとっくにわかっていた。

 それなら血塗れで立っている男は……。

 わたしは慎重に男に近づきながら拳を固く握り、距離を測って止まり、男の鼻をめがけてまっすぐ拳を繰り出した。

 だが拳は誰かの手のひらにピタリと収まった。かたく口を結んだ女が、ゆっくり首を振った。刑事の眼差しは同情と慰撫だった。

 男はわたしを見て、「紫乃、ごめんな、ごめんな」と泣きながら近寄ろうとした。警官三人は男を厳しく制止、強く確保した。

「痛え、やめてくれよ。紫乃、俺は……」

 そこまでだった。男は乱暴にパトカーの後部座席に放り込まれた。

 わたしは自分でも驚くほど冷静に、どうしたらこの場面で男を殺せるか、と考えた。サバイバルナイフを拾おうと、刑事たちの動きを観察しはじめたとき、奥松弁護士につまみ上げられるようにして、父の後ろに立たされた。

「おとなしくしていなさい」

 わたしはワアワア泣きはじめた。しゃくり上げ息が苦しくて、しゃがみ込んで泣いた。

 その夜の、そのあとのことは何も覚えていない。


 名古屋市東部近郊、里山の中腹に古い寺がある。そこの住職は父の高校時代の友人で、檀家でもないのに母の葬式を引き受けてくれた。

 父と都紀子さん、姉、ブルージーのマスター、はじめて見る父か母の友人たちが参列してくれた。

 機械技術工業関連の雑誌出版社へ入社直前だったわたしは、母の事件から立ち直れず就職を辞退した。だがそこから翻訳の仕事をもらえるようになり、だんだん依頼の幅も広がっていった。運がいいとしか思えない。一生分の運を使い果たした気がしているので、慎ましく丁寧に誠実にを日々心に刻んでいる。


 父は母の事件を「三角関係の典型」と言い、あとは硬くノーコメントを貫いた。

 警察の話では、母は男に刺された同居人のために救急車を呼び、父に電話をして、男に「逃げなさい」と言ったらしい。

 男は母と無理心中しようとしたが、けっきょく自分にはためらい傷さえ残せなかった。母の同級生なのだそうだ。

 母と男の間に割り込んだのは父かもしれない……とわたしは思っている。


 母の七回忌を終えたひと月後、父は心筋梗塞で死んだ。



 ブルージーは暗く、明かりは消えていた。

 霧で湿った髪と服の湿りけを、ハンカチにポンポンと吸わせる。顔にも軽く押しあてる。眼と頬は入念に。湿ったハンカチをバッグに仕舞い、ティッシュで鼻をかんだ。

 わたし、泣いていた。

 寂しさと悲しさが行き場をなくして、いつになく心が湿っぽい。竜ヶ池のボート屋もとっくに終わっていて、一人でボートを漕ぐこともできない。

「さぁ、帰ろうか」

 立ち去りがたく、暗い夜のその影のなかのブルージーのドアを見つめた。

 公園の人影はさっきより多くなっている気がする。夜の霧を楽しんでいるのだろうか。暖かくないけど寒くなくて、歩くのにちょうどいい。


「りっちゃん」

 わたしをりっちゃんと呼ぶ男は一人しかいない。

 ブルージーに明かりが灯った。

「りっちゃん、今日は親父の葬式に来てくれてありがとう。昨日の通夜にも来てくれて、すごく嬉しかった」

「お悔やみ申しあげます」

 深く頭を下げた。

「どうしたの? 今夜、店は休みと知ってんだろ」

「思い出にひたりたかった……なんてね。今夜ならブルージーでマスターとおとうさんに会えるような気がしちゃって」

「俺も……。なんか、店で親父が待ってるような気がしたんだ」

 マスターの息子、シュウくんはわたしの肩を抱き、ブルージーに誘った。

「これから晩メシなんだ。かるくつまめるものも作るから、つきあえよ。Mistyを聴きながらさ……うわっ、くっせえセリフ。ベッタベタだな、ハズカシイ。よく言うよ、俺も」

「サラ・ボーンで?」

「エロル・ガーナーだな」

 シュウくんは店の明かりをつけドアを閉めると、外の明かりを消した。   了                         

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サテンドール 山田沙夜 @yamadasayo

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