夢幻の住人

伊嵜 寝眼

夢幻の住人

「おはよう。同居人がいるとは聞いていたはずだね」

私は同居人と名乗ったそれが天井に張り付いているのを見てぎょっとした。

「さあ君、スナック菓子を寄越しなさい。無いならすぐ買ってきて私に与えるように」

無茶苦茶な奴だなぁと思いながら渋々コンビニまで行って、腹いせに手で抱え切るのがやっとの量のスナックを与えた。

それが1日も持たないうちに無くなるなんて。


嘘のように平和で日の匂いが風に染み込むお昼時。

「今日郵便屋さんはどっちから来た」

住人は2つ目の口にスナックを放り込みながら、1つ目の口で私にそう聞いた。住人は全ての人間を何々屋さんと呼ぶ。

「右と左、どっちだった?」

「覚えてないす」

「どっちだった?」

そう問う狂気的な目が私を射る時、不安定な心持ちがした…

壁に張りついた手が踊り上下運動を繰り返す部屋で重力を知らない住人は、宙に浮き上がったパソコンのキーを叩いては別の手で今日もスナックを頬張るのだった…

「おお、勝った、勝ったぞ、ベルシミコンがモドセグニサンに勝った。これでまた一儲けだ」

8つに分裂したパソコンの画面では、目と口が首の片面に寄ったラニーバとケンケルの間の子が七面体競走を終えていた。


猫も空気に溶ける夜。

暴力的な静寂に苛まれ住人を起こす。

「寝てないよ、眠れないもの」

そう言って瞼のない目をぱちくりさせた。

「さぁパーティと行こうか」

住人は自分に無数に張られた弦を爪弾き、私はそれに合わせて鍵盤を鳴らした。悲痛な音がこだまとなり、重力場を揺るがした。住人はそれで満足そうな顔をして3本目の腕をくねらせた。


人のいない町は郊外の宿みたいで好きだよ。私がそう言うと住人はそうだねと返事をし天井を這いながら滴り落ちた。住人はそうやって眠りにつくのである。


全ての物語の究極はレトリック的なものに収束する、と住人は言った。住人では無かったかもしれないが、私以外の者が言っているのを聞いたのだから、他人の代表である住人が言おうが言うまいが関係のないことだった。言いたいのはこうだった。どんなに筋の通った物語を紡ごうが、結局は修辞技法的な部分で読者を翻弄し曖昧なままに終わらせたくなってしまうのが作者というものの常であると。作者はそれを「考えさせるラスト」と呼び悦に入るが、放置された側としてはたまったものではない。物語から抜け出ることが出来ず、いつまでも放浪し続けることを強制されるのである。そうして瑣末なものを探し当てては、それがどういう意味であったかを延々と考え続ける呪いに溺れていくのである。

住人はそういったふうに、思考することを生業としているようだった。思考するのは人間だけではないのだよ、とある日起きがけに壁に這いずりまわりながら言った。私は人間だがね、という一言を添えて。

住人は私がここに越して来る前から居たのだったか、越して来てから居着いたのだったか。強烈な出会いの前から、何となくあの住人を知っている気がしてならない。断定する自信がなくなってしまった。それさえ分かれば住人がもしかすると私の妄想であった可能性を否定できたのだが、住人は自分の存在をこれでもかと見せつけ主張してくるものだから、論理で住人を倒せないのであれば私に証明の術は無いのだった。


「さあ君、どうする」

「どうするとは」

住人は急にそう問うたので、訳が分からず聞き返した。訳が分からないのは今に始まった話ではないが。

「人間では無い住人が傍にいた場合、そいつを敵と見なすか味方と見なすかに二分されるそうなのだが、君はどちらなのかね」

どちらでもいいです、と私は答えた。住人は、それではつまらない、私の読んだ本にはその2通りしか無かったのだよ、半端な回答は好きではないのだが、などと宣った。

「はっきりしないものが明確な答えを求めるというのはどうかしているのでは」

「君、はっきりしていないのは私だけだよ。私だけでいいんだよ。君ははっきりしなくてはならない。そうでないと私みたいになるよ」

住人の3本目の腕が私を指さす。4本目と5本目はちゃっかりコーヒーを淹れている。フィルターにつかないようにお湯を入れる、プロのような淹れ方をする。こっちに気が逸れてるということは、これは半ばどうでもいい問答なのかもしれない。そもそも意味のある問答なんてしたことも無い。

「私ははっきりしなかったものだから形を奪われてしまった」

「誰に」

「さぁ、君みたいな哲学家はいつか出会うはずの超常的な存在かな」

「結局わから――」

住人は私の口を先ほどのコーヒーで塞いだ。何故か冷めきっていた。

「君、分からないなどという言葉は禁句だからね」

私はコーヒーを全部飲まされ、ついでにいつも住人がつまんでいるスナック菓子もいっぺんに詰め込まされた。

「君が黙るまで私は君の口に何でも突っ込んでやろう」

私は住人に日が暮れるまで遊ばれた。


「別段君は私のことが嫌いなわけでも無いようだ」

天井から起き上がった住人はそう叫ぶと私の所まで登り降りてきた。

「そうだろ?」

左から見ると眼球が二つしか無いように見える頭部を見ながら、私はなんとなく首を傾げた。

「そうじゃないと同じところに住まおうとは思うまい」

「せめて人間かと思ってました。住むって決める前は」

「私は人間だけどねぇ」

住人は身体中から紫の液体をぼとぼとと零した。それは瞬間的に蒸発する。

住人は自分が人間には見えないであろうことを自覚しており、その上で自分は人間のつもりである、といった内容のことを滔々と語った。

「君に言われて心外だなぁ。今日は一日中不貞腐れていようかな」

そうボヤくと、エアコンを包むように丸くなった。

「暑いからやめてください」

「じゃあ私を人間だと認めなさい」

「どう考えてもそうは見えないです。鏡見てください」

「鏡見ても映らないのだよ私」

私は手鏡を出して住人に向けた。鏡越しに住人を見ようとすると自分が邪魔で住人が映らなかったので、結局住人が鏡に映らないのかどうかは分からない。

ひゅん。ひゅん……

聞きなれない音がしてエアコンの方を見ると、血管のようなものが壁を次第に覆っていくのが見えた……

「何してんですか!」

「だって人間だって言ってくれないから……ひゅん……」

住人としては『泣いているテイ』ということらしい。

「分かりました!あなたは人間ですから!降りてきてください!」

ドサッと音がして急に身体が重くなった。

「ちょっと何してるんですか……」

先ほどナマコのように変形した住人の紫色の身体が私を包み込むように覆い被さる。

「これ……嬉しいってことで……いいですか?」


私は論証を試みる。しかしこれらは尽く現実と、それに対峙する時の不真面目さによって弾かれる。脳内にて真面目に議論しようと脳内ソファから立ち上がるも、数秒で諦めどっかりとソファに再度座り込む。そんな日々が続いた。


紫色の涙が出るようになった。

これは感化されたということなのか、目の中に住人の一部でも入り込んでしまったのか。後者でないことを祈る。

「ああ、君もこちら側に来たね」

「嫌です」

「もう無理だ。君はどうしてもこちら側に来る必要がある。引きずり込んでやろう」

だから嫌だったのだ。いずれ住人の思う壷になるのではと警戒していたのだ。

「昔の私を見ているようだよ」

「何を言っているのだか」

「超常的存在に触れ、作りかえられてしまった時のことを思い出す。今度は私が君にとっての超常的存在ということだ」

天井が滴り落ちてくる。

家具が溶けだす。

視界の全てがぐにゃぐにゃと曲がり始める。私の目がおかしい訳では無い。

曲がる視界は耳に入り込む。流れる音がする。

住人は私の視界を潰し、ちらちらという光が暗闇を埋め尽くす。

そして口の中に何かが入ってくる感覚。飲み込むことを許さず、無理矢理入ってこようとする。声を上げることが出来ない。苦しい。思ったより巨大で果てしなく長い。もったりしていて、吐き戻す余裕すら与えてくれない。それでいてどこか懐かしい感覚。それは肺を、胃を、埋めつくした。耳からも鼻からも、されるがままに「それ」を受け入れる。酸素供給が途絶え、思考が停止する。


目が覚める。

いつもの部屋。

私は天井に這いつくばっている。

扉を開けて、何者かが入ってくる。

私だ。

寸分違わず人間だった頃の私だ。

じゃあ自分は今どんな姿に?いや、鏡に私は映らないのだった……

人間だった頃の私は私を見てぎょっとする。

私は床に落ちて、挨拶をする。

「おはよう。同居人がいるとは聞いていたはずだね」

あの時されたのと同じように。

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