99℃の明晰夢①

「……誰もいない……」


 色々あった五月も末に差し掛かり、三日ほど前から図書室で穿刀は読書をしながら暇を弄んでいた。

 同好会は、メンバーだった凪下君のが原因となり計画が振り出しに戻った為、唯一時間が有り余っているのは穿刀だけになったからである。

 まさか牛王寺さんすら放課後は暇が無いというのか────どこか裏切られた様な気分になって、本来なら明日行くつもりでいた彼女の実家、【赤柱堂】に足を向ける事にした。

 よくよく考えると彼女は【赤柱堂実家】で、腰を痛めた祖父の手伝いをしているのだった。もしかしたらそちらの手伝いをしているから、図書室の当番を休んでいるのかも知れない……なんて思っていた。

 ……それなら、学校を休むなどという行動の説明が付けられないというのに。




「……やぁいらっしゃい御剣君。黎夢なら具合が良くないって寝ているよ」

「そうですか。わざわざありがとうございます。お見舞いって……大丈夫ですか」

「きっと黎夢も喜ぶだろう!是非行ってやってくれ。私はここの仕事があるから……この奥、茶の間の手前で左手の階段を登って、すぐ右の部屋だ」


 僕は言われるがまま移動し、『りむ』と平仮名フェルトの打ち込まれたコルクボードを、それが提げられたドアを見つける。僕はそのドアに歩み寄り、ノックしてみる。


「……」


 返答は無い。きっと寝ているのだ。

 僕は無断で部屋に入るなどという行為に及ぶ事などするはずも無く、また『そうするべからず』という認識もあったから、僕はその場で持っていたメモ帳とボールペンで手紙をしたためた。決して綺麗な字でも、素晴らしい内容でも無かったが……心配している旨さえ伝えられれば良い、という心持ちで一心に書いた。


「ふーん、熱烈だねぇ」

「のわっ!!……なんだ繭弓か、いきなり出てきてびっくりさせるなよ」


 突如現れ耳元に顔を寄せ囁いてきた相手に、僕は心臓が止まるかと思うほど飛び上がる。

 以降、僕の精神内部が居心地良いとかで、狢の繭弓は僕の中に住んでいる。突然分離して現れる事もあり、迂闊に変な行動は出来ないのだ。


「人間ってのは回りくどいな。狢ならアレだよ……部屋に侵入はいって即****よ」

「冗談でもタチが悪いぞ繭弓……仮にもお前嫁候補(自称)だろ」


 繭弓は随分と僕と心理的・物理的に距離感が近い美人だがれっきとした男である。僕はそのつもりは無かったのだが、妖の掟を知らなかったが故に不用意に彼に【名付け】をしてしまい(親族以外の者に名前を貰う事を【名付け】と呼び、本来は夫婦になる者同士がやる事らしい。日本の夫婦同姓制度みたいなものだろうか)、好意を持たれ挙句『今の彼女(火々谷さん)と上手く行かなかったらで良いからにしてくれ』とまで言い寄られてしまった。僕とコイツの関係性は無論言い出せるはずも無く、勿論結婚は火々谷さんとしたいから、微妙な関係がズルズルと続いてしまっているという訳だ。


「今、お前が心の底から安否を心配してるその黎夢さんは無防備に就寝中なんだぜ?彼女が起きない限り、部屋に無断侵入はいった事なんかバレないぜ……な?」

「……ッ!」


 コイツという奴は本当に……!

 僕は腹が立った。僕の心を良いだけ掻き乱して、一体何が狙いなのだろうか。単純な心配と親切心からお見舞いに来たというのに、コイツは何か勘違いしているらしい。僕はを黎夢さんに抱いた事は無いというのに。


「この際言っておくけれど……僕は火々谷さんと交際している。牛王寺さんは読書仲間であって、そういう仲じゃない。お前も牛王寺さんより下の列なんだからな繭弓。僕が【名付け】の掟を知っていたなら今頃お前は名無しのままだったんだぞ」

「私はそれでも良かったけどなぁ……?呼ぶ相手もいなかったから特段困ってなかったんだが」


 ……降参だ。コイツにゃ何を言ったところで敵わない。さしずめ牙をがれた虎か龍か、すっかり抵抗する気力やら気迫やらを僕は失ってしまった。


「妖相手に、まして言の葉の扱いなら達人級の狢相手に、口で勝とうなんざ数十年早いのよ」

「……分かった僕の負けだよ。でも僕は牛王寺さんの部屋には入らないからな。こういうのは順序ってものがあるんだ。少なくとも人間の世界ではな」


 僕は書き終えた手紙をドアの隙間から差し入れて、早々にその場を立ち去る事にした。

 と、何故か僕から繭弓が完全に分離した。まだ僕を牛王寺さんの部屋にぶち込みたいのか……と苛立ちながら振り返ると、ヤケに静かに、また真剣な面持ちをしている。


「……気付いてないみたいだな穿刀。やっぱり私が憑依しなきゃただの人間だ」

「なんだよ……当たり前だろ、異世界転生モノの主人公じゃあるまいし。僕はただのしがない人間だぞ。……そりゃ、交友関係がほとんど妖ってのは変かもだけどさ……」

「────しゃーねーな、ちょっと憑依させて貰う」


 フッ。風切り音が聞こえたか否か、僕の意識は奥まった闇の中に放り出された。辛うじて完全に乗っ取られた訳では無いようで肉体の感覚はあるものの、自分の意思で体を動かす事が出来ない。

 ……何故か妙に寒い気がする。


「……私が言ってたのはこのだ。今は五月の末、一階の店と茶の間では暖房がまだ焚かれていて、仕切りもない二階の廊下この場所は、一階より暖かい空気が流れているはずなんだ」


 ……対流か。僕は中学の理科の授業で習った事を思い出した。温められた空気は軽くなる為上へ動く。対して冷やされた空気は重たくなる為下へ移動する────空気はこうして流れるものなのだ。だから一階で暖房が焚かれている今、二階の廊下は本来こんなに寒くはならないはずなのである。


『……中学生からやり直さないといけない』

「安心しろ、この寒さは物理的なものが要因じゃねぇ。……寒さの元を辿るぞ」


 繭弓の操作によって静かに歩き始める僕の体。【棗沢】の不良との殴り合いの時も、この様な不思議な感覚だった。僕なのに僕では無いような、字面では矛盾も甚だしい何とも形容し難い感覚である。


「……やっぱりな。私が『侵入っても気付かない』って言ったの、今なら分かるんじゃないのか……なぁ穿刀」


 悔しいが、この時ばかりは僕にもはっきりと分かった。

 牛王寺さんの部屋から、おぞましいほどの冷気が放たれている。五月とは到底思えない────真冬と言っても過言では無いほどだ。


「……にしても、何故あの店主は気付かない?妖である以前に孫娘なのに、まさか黙認はするまいな」

『……そうか。そうだよな』


 今更気付いたが、牛王寺さんが妖なのだから、その祖父である赤柱さんもまた妖なのである。恐らくは同じ【件】であろう。


「今更気付いたのか」

『僕は頭が悪いからね、大目に見てくれ』

「そう出来なくなる日もそのうち来るぞ」


 文句を言われてしまったが、こればかりは文句を返す事も出来ない。


『……どうする、赤柱さんに伝えるか?』

「いや、それはした方が良いだろうな。考えたくもない最悪の結末だが────無いとは言い切れない」


 ……まさか。今の僕は、僕の肉体に憑依した繭弓のはらの中が手に取るように分かった。

 彼は此度の犯人を赤柱さんと踏んでいるらしい。動機は分からないみたいだが……状況から考えると嘱託しょくたくによるものと見ている様だ。


『確かに状況が状況だけに有り得ない話でも無い。そうであって欲しくは無いけど』

「お前の行動範囲が一つ奪われて、放課後の暇が加速するからな」

『言わせておけばヌケヌケと……!!』


 前言撤回、やはりコイツの肚の中は僕には読み切れないみたいだ。精神という印字があまりに黒く滲みすぎて、僕には解読不能だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

妖《キミ》と生きる 笹師匠 @snkudn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ