間の悪い男

 

 ・天文五年(1536年) 五月  越前国敦賀郡 金ヶ崎城  海北綱親



 儂が北軍を任されてもうすぐ一年。まだまだ大原様には及ばぬが何とか軍勢を率いるということにも慣れてきた。一部隊を率いるのとは違い、各隊の得意不得意や疲労度も考えて廻番を考えて行かねばならん。いやはや、一軍の将ともなるとこれほどに采配が難しくなるものだとは思いも寄らなかった。


「海北様。木ノ芽砦から文が参っております」

「木ノ芽砦と言えば滝川彦右衛門(滝川資清)の一番隊が当番だったな。どれ」


 ……なんと!越前府中にて次郎左衛門(朝倉景高)が当主の左衛門尉(朝倉孝景)を襲い、討ち取ったと!

 敦賀にも援軍を願うとは……。


「栃木砦の赤尾孫三郎(赤尾清綱)からは何も言ってきておらんな?」

「ハッ!赤尾様からは今のところ定例報告以外の文は参っておりません」


 ううむ……。万に一つ、この報せが左衛門尉の謀であれば軽々に北軍を動かすのは不味かろうな。御屋形様は一乗谷の動きに気を配れと申されていたが、まさかこれほどの大事が出来しようとは。

 滝川には甲賀から付いて来た配下も居るし、一番隊は儂が散々に走り稽古をさせてあったから足の速い者も揃っている。もしかすると栃木砦からも明日には報せが来るのかもしれんな。


 御屋形様は尾張に向けて出陣されたばかりだし、今軽々に軍を動かすわけにはいかん。とりあえずは全軍を金ヶ崎城に集めていつでも動けるようにしておこう。三番隊・四番隊の者も非番で北近江に帰郷している者も多いはずだ。


「取り急ぎ、御屋形様に下知を仰ぐ。合わせて滝川と赤尾には詳細を確認するべく物見を出させよう」

「ハッ!」

「それと三番隊・四番隊で北近江に帰っている者は呼び戻せ。明日の日没までには北軍全軍が金ヶ崎城に集合できるようにさせよ」

「しかし、今から北近江に触れを回したとして、明日中に戻れるかどうかは……」


 何を軟弱な事を言っておるのだ。


「走れば半日で敦賀まで来られよう」

「お言葉ですが、北近江から敦賀まで半日で走れるのは海北様くらいのもので……」

「気合が足りんのだ気合が!明日の日没に間に合わぬ者は来月の俸禄を半知召し上げとすると触れよ。そうすれば皆死に物狂いで走って来るだろう」


 使番が微妙な顔をする。まったく、たったの六里(24㎞)ぐらいで何を情けないことを言っておる。半日あれば儂なら往復できるわ。

 それに敦賀から北近江への山道は景色も良い。長い峠を越えて海津に出れば、目の前に大きく湖が広がってなんとも素晴らしい景観が広がる。あの心地よさは他になんとも例えようがない。

 ……この際だ。久しぶりに儂も走ってみるか。


「何なら儂自ら触れに出ても良いぞ。儂が共に走れば皆も走りやすかろう」

「いえ、某が参ります」

「最近走っておらぬから丁度良い。この際だし儂も北近江を往復しても……」

「いいえ、某が参ります。海北様が金ヶ崎城を離れるのはいかにも不味いかと思われます」

「そ、そうか?」


 まあ、この使番も足は速い。何せ滝川彦右衛門の次男だからな。まだ若年だが、身のこなしは優れている。

 それに、御屋形様のお下知も無しに儂が敦賀を離れるのも確かに不味いか。やむを得ん。北近江往復はまたの機会としよう。




 ・天文五年(1536年) 五月  伊勢国員弁郡 梅戸城  六角定頼



 梅戸城に本陣を据え、北河盛隆と梅戸高実を筆頭に北伊勢の国人衆が居並ぶ。北伊勢ではまだ奉行衆と旗本衆の分離が充分に進んでいないから、参加する軍勢の多くは領国を持つ国人領主層だ。

 つまり、戦には時間制限がある。


「始めてくれ」

「ハッ!」


 俺の一言で北河盛隆が尾張を取り巻く状況の説明を始める。


 三河から進軍してきた松平清康は、守山城を奪取すると一旦岡崎城に戻っている。駿河の今川氏輝が急死したとの報せがあったから、清康も遠江方面を警戒する必要が出て来たんだろう。俺にとっては僥倖だな。


 尾張の両織田家は相変わらず六角を尾張領内に入れることに消極的だが、俺が北伊勢に出陣したことを受けて那古野城の今川氏豊から正式に来援の要請を受けた。今川家は氏輝急死によって家督争いに突入しているから、本家からの援軍が見込めない氏豊としては六角に頼るしかなかったんだろう。那古野城は守山城からほど近く、次に松平の尾張侵攻があった時には標的にされかねない危険な立地だ。


 もっとも、清洲織田家に関しては別の事情もあるようだ。

 尾張守護の斯波義統の元には北近江を追われた京極高清・高吉父子が身を寄せているが、この京極父子が強硬に俺の尾張入りに反対しているらしい。六角を尾張に引き込めば尾張を奪い取られると方々で話して回っているとか。

 他人を国を奪った極悪人みたいに言いやがって。京極父子を北近江から追い出したのは浅見と浅井だってことを都合よく忘れているようだ。


 そして岩倉織田家は賛成にも反対にも回っていない。要するに中立を表明している。今回のことはあくまでも清洲織田家と今川氏豊の問題だという立場だ。まあ、俺が那古野城に入った時に戦場になるのは尾張の下四郡だから、岩倉織田家の主張も決して間違ってはいない。時宜を得ているとは言い難いけどな。どちらが勝っても岩倉織田家は勝った方から敵視されることになるのが今一つ分かっていないらしい。


「以上の状況により、我らは那古野城で孤立する今川左馬助殿(今川氏豊)の援軍として尾張へ出兵いたします。

 主力は御屋形様の率いる旗本馬廻衆二千を核に北伊勢衆三千を合わせて兵五千で持って木曽川を渡り、勝幡城を第一攻略目標として頂きます。某の率いる北伊勢軍三千は浜田より船で荒子付近に上陸し、北上して那古野城の今川左馬助殿に合流。東西から清洲城を包囲する態勢を整えます」


 北河盛隆の言葉に俺も一座も頷いて同意する。

 蒲生のような派手さは無いが、堅実で失敗の少なさそうな戦略だ。敵対すれば足元を掬われかねない長島を避けるのも悪くない。荒子付近を抑えておけば角屋水軍を抱える六角軍は補給に事欠くことは無いしな。


「よし、出陣は明朝卯の刻(午前六時)とする。それまで兵に休息を取らせ、早めに休ませよ。くれぐれも深酒は禁止とする」

「ハッ!」


 全員が同意したことを受けて杯を取り上げる。俺が杯を手に取ったことを受けて三十人からの人間が同じように杯を掲げる。

 国人衆の当主クラスは全員軍議に参加させたから、なんだか物々しい雰囲気になってしまった。


「いざ!」

「いざ!!」


 ふぅ。とりあえず一体感らしきものは生まれたかな。

 後は現実の合戦で手柄を立てた者には恩賞を与えないといけない。できれば尾張は直轄領としたいんだが、さすがに国人衆に恩賞無しでは反発しか生まないしな。頭の痛い所だ。


 軍議が跳ねると、国人衆が退出する中を進藤貞治が近づいてきた。あの顔は何かあったな。


「御屋形様。敦賀から文が参りました」


 押し殺した声で俺の目を見据えながら秘かに文を差し出す。進藤らしくないじゃないか。しかめっ面はいつものことだが妙に悲壮感を漂わせている。

 なんだか文を開くのが怖くなってきたぞ。


「聞かせられるか?」

「いいえ」


 チラリと辺りに視線を巡らせると、おおよその参加者は既に退出しているが俺と進藤のやり取りを怪訝そうな顔で見ている者もいる。


「奥で読む。新助も付いてこい」

「ハッ!」



 文は海北綱親からだった。

 朝倉景高が朝倉孝景を軍勢を持って討ち取り、そのまま一乗谷に攻め寄せたと一報が入ったとか。あれほど今は待てと申し送ったんだが、結局自分たちだけで事を起こしたということか。

 今は滝川・赤尾に物見を出させて詳細を確認中だが、北軍は全軍を金ヶ崎に集中して俺の下知を待つと書いてある。


「よりにもよってこんな時に朝倉の内乱が起こってしまったか。……ちと策を弄し過ぎたかな?」


 あえて笑って見せるが、笑い声に力が無いのが自分でもわかるのが嫌なところだな。


「申し訳ありませぬ。某の献策が裏目に出てしまいました」

「いや、尾張進軍と連動するなどとは誰にも分らなかった。それに新助の策を採用したのは俺だ。気にするな」

「しかし……今この時に北軍全軍を越前に向かわせるわけには」


 そうなんだよな。

 本当にタイミングが最悪だ。今南軍は南山城攻略に掛かっているし、北伊勢軍と馬廻衆は明日には尾張に入ろうかってところだ。万一近江国内で騒ぎが起こった時に取り鎮めるのは北軍しかいない。その北軍が全軍で越前に行ってしまえば、本当に近江が空っぽになってしまう。

 しかも今回は朝倉を誘い出す為にわざと空にした時とは違う。本当に後詰が一切ない状態だ。もう一度郷村から臨時に兵を徴収するにしても、核になる軍勢が無ければ烏合の衆になるだけだ。


「朝倉次郎左衛門からは援軍を請うという文が参っているのだったな」

「ハッ!ですが、本当に次郎左衛門が出した物か確認中であると。明日になれば続報が参りましょうが……」

「それまでは待てぬ。国人衆にも動員をかけたし、今川左馬助にも援軍に参ると申し送ったばかりだ。今更尾張進軍を取りやめることは出来ぬ」


 さて、どうするか……。

 景高が俺の援軍を待たずに事を起こしたということは、それなりの成算があるということだろうな。実際文には孝景を討ち取ったと書いてあるし、それが本当だとすれば一乗谷城は上を下への大騒ぎになっているはずだ。無理に援軍を出す必要は無いかもしれん。


「次郎左衛門が左衛門尉を討ち取ったというのが真のことならば、兵一千のみを越前に進軍させよ。残りの三千兵と総大将たる海北善右衛門は金ヶ崎を離れることを禁ずる。ただし、越前に派遣した軍からの救援要請があった場合にはその限りではない」

「ハッ!」


 我ながらどっちつかずの中途半端な下知だとは思うが、現状ではこれ以上のことが出来ない。

 近江国内で叛乱は無いと思うが、万に一つ伊賀からの侵攻が無いとは言えぬ。それに海北綱親が危惧している通り、この報せそのものが朝倉の謀略である可能性も否定できない。やはり全軍を持って一乗谷に向かわせることは賭けが過ぎるな。


 ともかく、越前のことは海北綱親にある程度任せるしかないか。


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ちょっと解説


通説では織田信秀が今川氏豊から那古野城を奪い取ったのは享禄五年とされていますが、『言継卿記』の記述には天文二年に山科言継が勝幡城を訪れた際に今川氏豊も招かれていたとされています。

その為、織田信秀が那古野城を奪取したのは天文七年のことだという説もあります。


物語では『天文七年説』を採用しており、天文五年のこの時点では那古野城主は今川氏豊であるとしています。

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