尾張征伐(1)父の戦

 

 ・天文五年(1536年) 五月  伊勢国員弁郡 梅戸城  六角義賢



「いざ!!」


 皆に合わせて杯をあおる。どうも酒は苦手だ。口の中にむわっと広がる匂いがきつい。

 周囲の国人衆はすでに杯を置いて退出し始めているが、儂だけがあと一口分残ったままだ。だが出陣の酒を残すのは縁起が良くない。


 次の一口ですべて飲み込んだが、やはり酒は苦手だな。


 ……ん?

 退出する国人衆に紛れて進藤山城守(進藤貞治)が父上に近寄っていくな。何かあったのだろうか、父上も山城守も厳しい顔つきで話している。


「若、いかがなされました?」

「爺、山城守が父上の元に……」


 池田の爺に顔を向けた瞬間、父上と山城守は連れ立って奥へ行ってしまった。やはり何かがあったのだろうな。


「山城守が厳しい顔つきで父上に何事か申し上げていた。父上はそれを聞くと、一瞬こちらを見て奥へ行かれたのだ」

「ははあ。さては何事かありましたかな」

「恐らくな。儂には話して頂けるのだろうか」

「御屋形様がお話しすべきと思えば話されますし、お話しすべきではないと思えば何も申されぬでしょう」


 歯がゆいな。何事かあったのならば知りたいのだが……。


「恐らくは、南山城か越前で何事かがあったのでしょう」

「蒲生や海北のところで?しかし、それならば今から軍を引き返すこともあり得るのではないか?」


 儂の疑問に爺がゆっくりと首を振る。


「ここまで来て戦をせぬわけにも参りますまい。ただし、今後の動きが多少変わるやもしれません。ご案じ召されずとも、予定が変わるのならば御屋形様は必ずや配下の者にお伝えくださいます」


 そういうものか。つまり、このまま何も言われなければ儂らは予定通り尾張に進軍するというわけだな。


「戦とは例え父上といえども予定通りにいかぬものなのだな」

「無論のこと。相手のあることでございますし、当主ともなれば目の前の敵のことだけを考えれば良いというわけでもございません」

「難しいな……。儂にもいつか出来るのだろうか」

「ははは、例え御屋形様でもお一人では無理にございましょう。それゆえに家臣がお支え申すのでございます。ちょうど御屋形様が尾張攻めの用意をされている間に進藤山城守が別方向の情報を確認しておったように」


 そうか。その為に軍奉行に軍勢を預け、それぞれの裁量で動けるようにしておられるのだな。緊急の折に即座に動けるように。


「儂にも支えてくれる良き家臣ができるだろうか」

「若が良きご主君であれば自ずと良き家臣がついて参りましょう。特定の者の言葉だけを重んじるのではなく、御屋形様のように広い見聞をお持ちなさればよいと存ずる」

「例えば、保内の伴庄衛門のようにか」

「左様にございます。誰からも分け隔てなく意見を聞き、そのうえで若が良いと思うように断を下されれば、自然と良きご主君となれましょう」




 ・天文五年(1536年) 五月  尾張国海東郡 勝幡城  織田花



 殿が美濃で亡くなられてからおおよそ一年。この勝幡城も様子が変わってしまった。

 織田弾正忠家は殿の弟の与次郎殿(織田信康)が差配され、与次郎殿の後見によって三郎五郎殿(織田信広)が弾正忠家の跡継ぎのごとく扱われている。殿の嫡男は私が産んだ吉法師のはずなのに、幼弱であるという理由から家督を奪い取られようとしている。

 冗談じゃないわ。三郎五郎殿は所詮前の奥方が召し使っていた下女が産んだ子。私の産んだ吉法師を差し置いて側室腹の子に家督を奪われるなどあってよいはずがない。


 城内が物々しい空気に包まれる中、部屋の外で”御免”という声がして襖が開く。この声は平手殿(平手政秀)ね。鎧下地の姿を見れば、間もなく戦が始まるということは女子でも分かるわ。


「お方様、恐れ入りますが吉法師様と共に一時清州城へ逃れて頂きたく存ずる」

「平手殿、六角の軍勢が木曽川の対岸に現れたと聞きました。真のことですか?」

「ハッ!ただいま与次郎様(織田信康)が三郎五郎様(織田信広)と共にご出陣なされました」

「この城へも六角が攻め寄せて参るのでしょうか?」

「ご案じ召されるな。与次郎様達ならば必ずや六角軍を撃退なされましょう。万一に備え、今は吉法師様と共に清州城へ参られませ。喜六郎様(織田信時)も先ほど母君と共に清州城に参られました」


 与次郎殿に六角に勝てるほどの器量があるとも思えないけれど……。


「平手殿はどうなさる?」

「某は土田御前様と吉法師様が無事に清州城に入られて後、与次郎様の陣に加わります」

「六角に勝てますか?」

「……大和守様の援軍もございましょう。必ずや六角を撃退してご覧に入れます」


 ……嘘の吐けない男。はっきりと顔に討ち死にを覚悟していると書いてある。それに、大和守が援軍など寄越すはずがない。殿を美濃で死なせたのは当の大和守なのだから……。


 いいえ、花。これは好機なのよ。

 私の父は遠縁とはいえ六角の縁に連なる者。私や吉法師にも六角ゆかりの血が流れている。尾張を六角が領するのならば、吉法師は再び弾正忠家の跡継ぎに返り咲けるかもしれない。


 それに、六角はおそらく清州城も攻め取る心づもりをしていることでしょう。今清州城に参れば大和守と共に吉法師まで死ぬことになるかもしれない。


 私は弾正忠家の奥であり、織田信秀の嫡男の母。この身を近江宰相に捧げてでも吉法師の行く末を守らねばならないわ。


「私と吉法師は勝幡城に残ります」

「お方様、それは……」


 激しくかぶりを振ると平手殿も続く言葉を引っ込めた。今は勝幡城に居残ることが吉法師のため。


「清州の大和守様……いえ、大和守は弾正忠家を使い捨てにするつもりでありましょう」

「……」

「それならば、いっそのこと近江宰相様に吉法師の身柄をお願いするべきです」

「しかし、いかにお方様や吉法師様が六角の遠縁に当たるといっても今は敵方にございます。六角もどこまでそれを考慮してくれるか……」

「女には女の戦い方があります。たとえこの身を捧げることになろうとも……」

「そ、それは……」

「平手殿、これ以上の問答は無用です。そなたは与次郎殿の軍勢に加わり、もしも与次郎殿が敗れた後は勝幡城に戻って来なさい。吉法師の身柄は私が守ります」


 そう。

 古の常盤御前は我が身と引き換えに平相国から牛若を守ったのです。私は尾張の常盤御前となりましょう。この身を近江宰相に捧げ、引き換えに吉法師を守るのよ。

 いつの日か、吉法師は九郎判官の化身となって六角をも討ち滅ぼすことでしょう。


 近江宰相は好色な男であると聞く。私が顔を見せれば必ずや涎を垂らして迫ってくるに違いないわ。


 ああ……亡き殿の御子を守るためとはいえ、この身のなんと悲しき宿命さだめであることか。




 ・天文五年(1536年) 五月  美濃国海西郡 六角本陣  六角義賢



「始めろ」


 父上の下知に従って鏑矢が放たれる。木曽川を挟んだ織田の陣からも同様に唸りをあげて鏑矢が飛来する。これから矢戦が始まるのか。

 矢戦ならば儂の得意。儂の矢ならば敵将を射抜くことも……いや、此度の戦はしっかりと父上のなさり様を見ることに決めたのだ。本陣にあって父上言動を知れることを幸いと思おう。


 それにしても、結局我らは予定通りに尾張に進軍した。昨日の進藤との話は何事もなかったのだろうか。


「織田の兵は三百といったところか」

「左様ですな。今のところ後詰の姿は見当たりませんが……」


 父上が隣に控える梅戸の叔父上に軽口を叩いている。梅戸の叔父上は日頃北伊勢の奉行を務めておいでのはずだが、今回は国人衆との兼ね合いもあって僅かな供回りと共に父上に従っておられる。


「ふむ……さすがは平井加賀守(平井高好)だな。矢戦では天下に右に出る者が居らぬ」


 前線に目を向けると、確かに弓隊の核を為す平井勢の威力は抜きんでている。中央に居て輿に乗っているのが加賀守だな。先ほどからしきりに軍配を振っているが、加賀守の合図と共に矢の一斉射が起こっている。敵も応射しているが、明らかに敵の矢の勢いが弱まってきている。


 ……む。騎馬が一騎駆けてきた。先ほど出されていた物見か。


「伝令!」

「申せ!」

「ハッ!織田方に増援の気配なく、清州方面や祖父江方面にも敵影は見えません!」

「ふむ。どうやら此度は弾正忠家だけでの戦のようだな」


 ポツリと呟いた父上は何やら憐れむような複雑な顔をしておられる。目の前の敵が小勢であるならば一息に揉み潰せば良いように思うが……。


「使番!」

「ハッ!」

「神戸と大木に河を渡って敵方の右翼のさらに右に回り込めと伝えよ!ただし、後方を遮断することは禁ずる!織田の逃げ道を残しておけ!」

「ハッ!」


 父上の下知に従って四騎の使番が駆けてゆく。それにしても退路を塞ぐなとは一体……。


「爺。父上は何故逃げ道を残せと仰せなのだ?敵が小勢ならば揉み潰してしまえばよかろう」

「御屋形様は戦の後のことをお考えなのです。退路を無くせば敵も死に物狂いになりましょうし、こちらも相応の被害を受けます。逃げたとしても清州城にはせいぜい千ほどの兵が籠るのみ。北河勢と共に清州城を囲めば、それで敵は成すすべなく降伏してきまする」


「なるほど……。味方の損害を少なくするためか」

「味方だけでなく敵の損害も、でございます」

「何故だ?敵を生かしておいても厄介になるだけではないのか?」

「織田が遠征して来ておるのならば若の仰せにも一理ありますが、尾張は織田の本拠地にござる。これ以上逃げ道が無いのならば、死なせるよりも降伏させて配下に収めたほうが上策にございましょう」


 そういうことか。確かに我らはこれからも尾張から三河にかけて戦をしていかねばならん。敵は殺すよりも降して味方にするということか。


「無論、昨日まで敵であった者が心底六角に臣従するわけではありません。尾張を攻め取った後はひとまず尾張の者の心をつかむことに腐心せねばなりますまい。御大将にとっては、戦が終わってからの方が仕事が多いくらいでござる」


 なるほど。

 今まで思いも寄らなかったことが次々に起こるが、爺に説明されるとなるほどと納得することばかりだ。戦とはこれほど様々に考えを巡らせねばならぬのだな。


「おお、織田が崩れたようにございますな」


 爺の言葉に再び前線に目を戻すと、織田の旗が大きく揺れて後方へと移動していく。爺の言う通り、総崩れのようだな。


「四郎!」

「ハッ!」

「ここからが尾張守としてのお主の役目だ。俺のやり様をよく見ておけ」

「ハハッ!」


 父上が一つ笑うと再び前線へ視線を戻された。こちらの損害は手負いを含めても百名も出ていないだろう。


 これが、父上の戦か……。

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