第8話 毛むくじゃら

 ウェイターは指を口に突っ込むと鋭く口笛を吹いた。


 急に勝手口のドアを押し開き、黒い毛むくじゃらの塊が転がるように飛び込んでくるとウェイターの前で喘ぎながら止まった。


「いいかい、お嬢さん。こいつはとてもよく訓練されている。涙線なみだせんのやつらを追っていく事なんか、お茶の子さいさいなんだ」

「だからこいつの背中に乗って行くといい。涙線なみだせんの後を辿って必ず芋虫のところへあんたを連れて行ってくれるさ」


「わかったわ。色々とありがとう」


 そう言うと、お嬢さんは黒い毛むくじゃらの背中に飛び乗った。


 毛むくじゃらは力強く床を蹴ると、お嬢さんを乗せたまま、大きく開いている窓から外へと飛び出した。そして迷うことなく街路を一直線に走り抜けた。


 両側に立ち並ぶ建物の窓や入り口や軒先が、スクリーンに写し出された影絵のように後方に流れ去って行った。


 途中、毛むくじゃらは赤信号の交差点の前で幾度か急停止すると、喘ぎながら信号が青へと変わるのを待った。そして信号が変わると骨を投げられた犬のように再び猛然とダッシュした。


 お嬢さんは毛むくじゃらの首に両手を回し、振り落とされないようにしっかりとしがみついていた。鋪道を蹴るたびに毛むくじゃらの背中はビロードの草原のように波打ち、その下では筋肉がしなやかに躍動し自らに課せられた責務を果たそうとしていた。


 やがて彼らは街を出て、草原を駆け抜け、山を越し、海を渡り、そして見知らぬ国にたどり着いた。


 そこは、しなびた港町だった。


 場末の酒場では中年の男が仲間と一緒に昔からよくあるカードゲームをしていた。


 毛むくじゃらを外で待たせると、酒場の木戸を押し開け、お嬢さんは店の中へと足を踏み入れた。

 質の悪い酒と半分腐ったような食べ物の匂いがやってきて周囲を取り囲み、彼女に通せんぼをしようとした。

 それを押しのけ唇を真一文字に結ぶとお嬢さんは、つかつかと男の座るテーブルの前まで歩いた。


 男は配られたカードを手に持ちながら、じろりとお嬢さんを見返した。


「私の芋虫さんを返してちょうだい」

 お嬢さんは冷ややかに男を見下ろしながらそう言った。


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