6ページ目 安堵

 このノートで騒いだ体調は落ち着き、息をするのも相当楽になった。風邪薬はたまに飲むけれど、もう風邪薬を飲まなければ息ができないほどの体調ではなくなっている。のどはいまだに違和感がぬぐえず、咳はまだ油断をすると出てしまうので、人前では努力でせき込まないように気を付けるようにしている。基本的に移すリスクや、移されるリスクを考慮して休日や終業後は部屋で引きこもる生活をしている。僕自身は、人に移すことに対しての恐怖感がどうしても目の前に大きく出ていて、それは自分が向き合わなければならない問題であるから、自分が仮に無関係であったとしても、人に移さないように努力を怠りたくはない。


 今日は体調も落ち着いたので、マスクを付けて咳をしないように買い出しに出かけた。支払いは交通系ICで行い、必要最低限の会話のみ行うことができるように、最大限の労力をかけていく。街中は娯楽と呼ばれるような…映画や100円ショップ、本屋が軒並み「緊急事態宣言を受け閉店しております」とのポスターが店頭に貼られていた。本当は本を買って、紙コップを仕入れ、必要な範囲の食料を購入して帰宅するつもりであったが、本はネット通販で買うしか方法が見当たらないだろう。そう、お店を見ながらぼおっと考えていたのである。街中は意外と人がたくさんいて、大体の人たちはマスクを付けている。8割くらいの見かけた人はマスクを使用していたように感じられる。

 買い出しを行っている際に、注意書きの出ているところがあり「新型ウイルスの感染拡大に伴い物流の停滞が起きております。誠に申し訳ありませんが、こちらの商品は入荷しておりません。次の入荷予定も未定です。」と書かれたものがあった。こうして物流の停滞や、モノがない状態を見ていると、戦時中はもしかしてこのような形でモノが売り切れているのを何度も観測していたのではないかと考えている。しかし、戦時中であるならば配給制であるし、さらに物がない状態だったことは明白である。このさながらカオスな表記に対して「戦争」を感じる僕の見通しはやはり甘いのである。何か少し懐かしさも感じる物流の停滞に、「ああ。戦争の時にこうだったと思うのが正しいのではなくて、東日本大震災の時の物流の停滞をほうふつとさせたのであろう」と思い出すことに成功した。


 東日本大震災は今から約9年前に起きた大地震で、あの頃の僕は関東地方の親元で過ごしていた。東日本大震災の時はあまりの地震の大きさに恐怖が大きくて、学校から帰ってすぐに寝込んでしまった。その後、親とスーパーへ行ったときに少しだけモノが流通しなくなっているのを目の当たりにした。これは仕方がないことであるが、こうした物流が停滞するとどうしても平常時とは違うことを改めてはっきりと認識せざるを得ないと思った。

 ものを考えながら食料を調達して、無事に帰路についていた時に、市の車が「○○市はただいま緊急事態宣言を受け、外出の自粛を市民の皆様に要請しております。食料の購入や散歩などは構いませんが、それ以外は家でしっかりと休みましょう」というような内容(うろ覚えであるから正しいとは言えない)の放送を車が流していた。車の中の人と目が合ってしまって、ただの買い出しであったとしても少しだけ気まずい気持ちになる。彼らは市民の安全を守るためにこうした声掛けをしなければならないのが本当に大変であると思う。彼らも市民であるのだから、彼らだって本当は家でこもっていたいだろうに、仕事であるから率先して人々に声をかけなければならないのだ。僕は彼らのような市役所の方が本当に多大なご尽力をかけてくださっていることを考えると、彼らが平均年収くらいしかもらうことのできない現実に嘆くことしかできない。今本当に苦しくて自分たちですら先が見えないのに、先が見えないことに対しての文句も言われることもあるのではないかと思えて、どうしても胸が苦しい。


 家に帰る前にポストによるとAmazonからの荷物が届いていた。管理人さんが基本的にロッカーに入れてくれるのであるが、最近管理人さんからいつもアマゾンで本を買っている人という認識をされ始めてきた。もちろんこれは事実なんだけれど「あ、毎日アマゾンで本を買われている方」と覚えられると少々恥ずかしさもある。さて、今日Amazonから届いた本は責任という虚構と題された本だ。人から勧められたので読み始めたが、初手の問いから哲学書であることがわかった。そして、語彙力が豊富な筆者による文章である。もちろん、哲学をされているのであるから、僕以上に読書をされているであろうし、インプットをたくさんしているからアウトプットが非常に美しくできるのであるから、僕のこの考えは甘いわけである。


追伸。


 先日SNSを見ていたら「無症状でも経済を回すために外に出る」的な投稿が散見された。自分の考えである「誰かを殺す可能性があるから引きこもろう」とは違うものだから、最初は本当に驚いたのであるが、それからふと色々なことを考えてはとても悲しい気持ちになった。殺す可能性があることが怖いと思っているのは僕の価値観であり、その人の価値観は命よりも経済が回っている方が大切と信じている価値観なのであろう。これはおそらく自分の良いと思っている美意識が経済を回すことに対して熱を持っているわけである。その考え自体はその人自身が心の奥底から持っている価値観であるから多様性の尊重の観点で考えると、こうした考えもまた多様性が尊重されているからこそ生まれているということを自覚せねばなるまい。

ここで、彼の意見は命を殺す可能性があるため否定を行うと考えるのは、多様性の否定である。この彼の見ている視点、思考、住んでいる世界ではその考え自体が正しかったり、美しい考え方なのではないだろうか。それは僕には理解できないし、今の世界ではマイナーな考え方であり、現状の緊急事態宣言を発令している日本においても受け入れがたいものかもしれない。少なくとも現状はこの考え方自体を国が推奨はされていない。

 しかし、この考え方自体を間違えていると決めつけたり、強く主張したりできるほど僕は「命大事に」の考え自体を彼に押し付けるほどの力を持っているわけではないと思う。僕は多様性を尊重したい。だから、多様性の尊重が「どんな考え方も文化もこうあるだろうと考えを(納得できないとしても)認める」ことであれば、僕はそれを受け入れられないけれど否定はせずに、存在は認めようと思う。ただ、自分自身には推奨できるとは思っていない。正直これは難しい話だと思った。多様性の尊重がきれいごとなのか、僕の受け入れようとする心がきれいごとを並べているだけなのか…自分自身、どう考えて彼の考えは間違っていると否定したくないと思いながらも、どこか嫌だと思っている自分も存在している…ただ、それを集団が否定しているから僕も否定したいと思う気持ちとは違うのだ。なんだろう、どうしても胸糞悪い。

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