何かもらっても嬉しくない理由

自己肯定感の低いかたには、

「他人から何かもらっても嬉しくない」

ということがよくあると思います。

その理由を説明できそうな切り口に最近思い当たったので、書いてみます。


自分は昔から、頼んでもいないのに両親から服を余計にもらっていたため、去年には溜まった服を大量に処分しました。

しかし先日もまた、頼んでもいないのに、母から秋物のシャツを三枚押し付けられました。曰く、自分(大沢)が持っているシャツも古くなってきたので、それを着ているとおかしい、とのことでした。

三枚全部もらったら、また必要より多くの服を持て余すことになります。だから、自分も一枚だけもらいたいと言ったのですが、母は無理やり三枚のシャツを、部屋のラックにかけてきました。

やや不本意ながらも新しい服が手に入ったので着ますが、やっぱり余計な数の服は持っていたくないので、古くなったやつは近いうちに捨てるつもりです。


正直に言えば、自分で買うためにお金や手間をかけなくても服の「新陳代謝」が進むのは助かります。

一方、自分は最低限おかしくない程度の服を最低限の点数持っていれば満足します。

それでも自分(大沢)に余計な服を押し付けてくる母の今までの言動を総合すると、

「息子がちゃんと見てくれを取り繕えるように、いい服で着飾っていて欲しい」

という要求の押しつけを感じるのです。

その「支配される」感じには、いつもむかむかします。だから先日には、新しいシャツを母の目の前でナイフでずたずたにしてやろうかとさえ考えました。


思えば自分は昔から、生活態度とか人生の生きかたとかのレベルでは、自分がやりたいようにやることをあまり尊重してもらえませんでした。

だからどうしても、

「人生とは、他人から与えられた義務を果たすために生きるもの」

とは思えても、

「人生とは、自分自身の素直な喜びのために生きるもの」

だとは、あまり思えてきませんでした。

だから、他人から何かもらったとしても、前者の義務を遂行するための「官給品」にしか思えなくて、自分自身の喜びのためにもらえたと思えなかったのではないか。先日の秋服の件から、そう考えました。


今日は、「他人から何かもらっても嬉しくない」というもやもやの理由を、先日気づいた切り口から語ってみました。

同じ気持ちをお持ちのかたが、今日お話しした切り口や、あるいは別の切り口から、その気持ちの正体に迫れれば幸いです。

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