心を開くって難しいなあ

自分は先日、母方の祖母を亡くしました(https://kakuyomu.jp/works/1177354054895092612/episodes/16816700426880529257)。

その際にいろいろな気付きを得たのですが、その一つが、

「(自分にとっての)他人に心を開くことの難しさ」

です。


小さい頃から、家族から(あるいは家族以外のいろいろな人たちからも)「自分らしさ」を否定されて育ってきたので、どうしてもあるがままの自分を出すことに対して恐れがあるのです。そのために、他人の言葉やそれ以外のいろいろなメッセージも、そのあるがままの自分を誘い出して叩くための「罠」にしか思えないのです。

例えるなら、分厚い防壁に囲まれた要塞に引きこもっているような感じです。その狭い門を通して、他人のメッセージを受け取るにしても、自分からメッセージを返すにしても、それがまずいものではないか「検閲」するために、いつも神経をとがらせています。


特に去年の秋から、自宅で両親と生活していても、彼らと顔を合わせることも極力避けるようになりましたし、必要最低限の実務的な会話以外を避けるようになりました。

それで、怒られることやねちねち嫌味を言われることなども減ってきて、ある意味では楽になってきました。しかし一方では、上に書いた「要塞」の壁と「検閲」を強化して、それによる生きづらさも強化してしまったのかもしれません。


祖母のお通夜~葬儀の際に、その癖がもろに出てしまいました。両親や、参加した親戚の人たちの会話にも自分は全然入らなくて、スマホ見たり、葬儀場のラウンジで一人になったりしました。

特に、自分が心を閉ざしてると強く感じたのが、祖母の弟さんの一人(以下「おじさん」と呼びます)と話した時です。ラウンジにいた時、対面の席に座ってきたおじさんに話しかけられたのですが、自分は本当に最低限聞かれたことに答えたり、おじさんの話に適当にはいはい同意したりするだけでした。無表情であまり目も合わせずにそんな適当な受け答えしかしなくて、後から考えたら、明らかに会話をめんどくさがってると示す態度を取ってしまいました。

おじさん自身は、冷静に見れば気さくでいい人だったので、そんなにぞんざいにあしらったことに申し訳なさを感じています。一方では、おじさんに合わせて気さくに話すことが、その時の自分にできたのかどうか疑っています。


今回のお話は、心の「要塞」の守りをかなり強化してしまっている、最近の話です。

しかし最近に限らず、昔から自分にとって「心を開いている」状態とは、ゲーム的に例えれば特別な無敵状態のようなものでした。対人安心感のゲージが一定以上溜まったら、ノーガードでがんがん自分を出しまくってもノーダメージでいられる、という感じの……。その発動に必要なゲージの値もかなり高いので、ごくたまにしか発動できないのです。

それが長年の心の癖だから、自分は一生それと付き合い続けるかもしれない、という諦めも、心のどこかに持っています。


世の中には、自分のように普段から「要塞」に引きこもってるかたも、せいぜい「民家」程度の守りで済ませられてるかたも、あるいは「要塞」も「家」もないむき出しの心で生きてるかたもいるかもしれません。

一つ目のかたからは「自分と同じような人がいるんだ」という共感を、二つ目・三つ目のかたからは「こんな人もいるんだ」という温かいご理解をいただけると幸いです。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る