「ボヘミアン・ラプソディ」を「模範解答」にしか思えなかった話

最初に断っておくと、この記事は、映画「ボヘミアン・ラプソディ」自体への批判ではありません。

名作映画に物足りなさを感じた、自分の感性の話です。


自分は、少なくとも話の大筋では王道パターン通りの物語を書きたいし、受け手としても、そういうパターンを踏まえた物語を好みます。

しかし、あまりかっちりと王道パターンにはまりすぎた物語に対して、「模範解答」を見てるだけという感じを覚えて、冷めてしまう時があります。


1年ほど前に、「ボヘミアン・ラプソディ」(伝説的なロックバンド・「クイーン」のボーカルだった、フレディ・マーキュリー氏の伝記映画)を見ました。

同作は、

・音楽の才能や破天荒で面白い人間性を持ったフレディの成り上がり

・プライベートと音楽の双方における葛藤や挫折という、「影」の部分

・↑これを乗り越えた上での、大きなライブの成功

……といった、伝説的なロックスターの光も陰もある人生を(もちろん脚色はありますが)2時間映画として綺麗にまとめており、完成度の高い映画でした。


しかし正直に申し上げると、同作を見た後の自分の感想は、

「ふーん……。いい映画だったね」

程度です。つまり、少し冷めていました。

なぜなら同作は、最初に言った通り、物語の王道パターンにかっちりはまりすぎていたからです。

具体的には、

・序盤で家族との関係が悪かったフレディが、ロック仲間たちや恋人(途中から奥さんになります)の支えもあって一緒に世界的スターに成り上がっていく

・途中で仲間たちとの間に亀裂が入り、奥さんにも振られる

・最後は(奥さんとは夫婦生活に戻らないが)仲間たちとも家族とも和解し、大きなライブを成功させる

という、とても「模範解答」的なパターンが見られました。

特に「家族との和解」は、リアルでもフィクションでも絶対の正解ではないと自分は考えています。だから、終盤のフレディが家族と和解するくだりは、物語の主人公の行動としてはいかにも「模範解答」としか思えなくて、

「物語によっては、別に家族との決別を描いてもいいのでは?」

と、自分は正直思いました。


実際、フレディ・マーキュリー氏の人生に、そういう「模範解答」的な和解のくだりがあったかは自分には分かりません。

ただ、少なくとも映画「ボヘミアン・ラプソディ」は実在した世界的有名人の伝記なので、下手に「模範解答」を外すわけにはいかなかった。そういう事情はあったのだろうと、理解しています。

それでも、自分がそれに物足りなさを感じたことは確かです。言い換えると、自分はどうしても、万人からすでに認められた「模範解答」以外の答えを、物語に求めるところがあります。

そういう、どこか「ずれた」感性を個性として大事にすることが、個性的な物語を創るために必要だと考えています。


「ボヘミアン・ラプソディ」のスタッフや出演者の皆様、そしてそのもとになった伝説を作ってくださったフレディ・マーキュリー氏に、感謝を捧げます。

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