百合は純潔のアレゴリーである

 百合にはカップリングというものがあります。カップリングが成立すると、その間に挟まるものは、どんな聖人君主でも容赦なく排斥されます。それだけ強固な結びつきということです。

 ある少女とある少女を結びつけるその力は、巨大不明感情と呼ばれているようです。これを読み解いていきます。まず始めに私たちはそれをアレゴリーとして読み解いていきます。



 ▪ ―― アレゴリーとは何か?


 アレゴリーとは、シニフィアンとシニフィエの不可能な結びあいです。

 シニフィアンとシニフィエは、言語学的に言えば、意味されるものと、意味するものです。犬という言葉が、シニフィアンで、動物としての犬が、シニフィエです。


 アレゴリーの場合は、シニフィエとは、意味される内容。シニフィアンとは、意味する形式です。


 そしてアレゴリーとは、一見すると不可能なシニフィアンとシニフィエの結びつきのことを指します。たとえば、天秤(シニフィエ・意味される内容)は、公平(シニフィアン・意味する形式)とされます。百合(シニフィエ)は純潔(シニフィアン)とされています。不可能な結びつきという点では、謎々も、たとえに出せます。

 たとえば、「始めは四本足、次は二本足、最後は、三本足のもの」(意味する形式)は、「人間」(意味される内容)となります。

 これがシニフィアンとシニフィエの関係でみるアレゴリーです。


 問題の焦点となるのは、シニフィアンとシニフィエの結びつきの不可能さ、です。よく見落とされがちですが、アレゴリーは完成されると、元の別々の存在だったことがなかったことにされます。

 先のたとえなら、「天秤=公平」「百合=純潔」「変足怪物=人間」は、元は「天秤/公平」「百合/純潔」「変足怪物/人間」であったはずです。


「/」とはその二つを分け隔てていた壁のことです。しかし「=」で結ばれたとき、「/」は消失したように思えます。


 つまりアレゴリーを前にしたとき、人はこういう風に納得します。天秤は初めから公平として生まれた、百合は初めから純潔として生まれた、変足怪物は初めから人間として生まれた、というように。

 この「/」壁の消失を、ヘーゲルを引くとこうなります。


 自由な個人が、不確実で一般的で抽象的な表象に代わって、抽出の形式と内容とを構成するならば、われわれが理解する意味での象徴的なものは、おのずと退いていくものである……。意味と感覚的表象、すなわち内的なものと外的なもの、ものとイメージは、その時、もはや互いに異なったものではなくなる。そうではなくて、一つの全体として掲示されるのである。この全体において、外観はもはや別の本質を持たず、本質も自らの外や傍らに別の外観を持たない。³⁰


「内的なもの=外的なもの」「もの=イメージ」「外観=本質」となり、二つを分け隔てていた壁「/」はそこに入りこむことなく、退いていきます。わかりやすくいえば、この二つを分け隔てていたものを結びつける行為は「象徴的なもの」であり、二つを結びつけたときには、いないものとなります。よって、その二つは強固な結びつきとなるのです。このことを、アガンベンはこう述べています。


 分かれているものを統合する認識行為としての「ともに来たるもの=象徴的なものシンボリコ」は、この認識の真実にたえず背き、告発する「不和をもたらすもの=悪魔的なものデイアボリコ」でもあるのだ。³¹


 実はそうなのです。二つを結びつけるものは、その二つがかつては結びつかなかったものでもあったことを告発もするのです。ゆえに象徴的=寓意的なものは、悪魔的なものだとされていました。中世バロック時代において、エンブレムが流行したとき、それが悪魔的行為だとわかったうえで、エンブレムを作り上げていました。


 サン・ヴィクトルのフーゴーは「似ていない像の方が、似ている像よりもいっそう、物質的で形あるものからわわわれの魂を引き離してくれ、魂が自分の中で安らぐことを許しておかない³²」と書いています。つまり「外観と本質の一致や統一ではなく、両者の不一致や転換こそが、より高い認識の媒介となる³³」という考えです。


 たとえば、ホラボッロの「橋のみえる草原に浮く人の手」は「勤勉な男」に結びつき、「アーチ状の橋の上に浮く人の耳」は「未来の仕事」と結びついています。³⁴そして、こうした人間の体の一部だけ(手や耳)をはぎ取り、それに意味づけする行為は、人間の姿を神から遠ざける行為でありました。人間は神の姿に似せて作られたとされていたからです。ゆえに。Pietro Lombardoという神学者であり彫刻家であった彼は、それらのエンブレムを見て嘆きます。


 神に象って、その似姿に創造された人間は、「悪魔の策略によって、非類似の遠い領土に堕とされてしまった」。この「非類似の領土」は、「罪の王国」であり、そこでは「記憶は消え失せ、知性は曇らされ、意志は麻痺させられる」。しかしながら、寓意的な指向においては、この置き換えは贖罪の証であり、この非類似は最高の類似となるのである。³⁵


 けれどもアガンベンが続けているように、アレゴリーこそ、最高の類似だったのです。そしてもちろん悪魔的なものでもあったのです。

 ここまでが余念なく続けた「アレゴリーとは何か?」の説明です。



 ▪ ―― 百合と純潔のアレゴリー。


 では、先にたとえをあげて、表題にもしている「百合=純潔」というアレゴリーを見てみます。

 百合は、ダヴィンチの受胎告知では、ガブリエルが手にしています。そこから、純潔、処女の証です。そして携えるガブリエルは天使です。送られるのは、聖母マリアです。ここには、どこにも「悪魔的なもの」は潜んでいないように見えます。


 だからこそ、言えます。

 排除された「悪魔的なもの」がそこにあると。隠されていると。隠されているというのは、本当になかったことにされているものです。というのは、アダムとイブに隠されたリリスという形象を見たときに、わかったことでしょう。そして今、私たちは、百合=純潔というアレゴリーのうちに、見つけることができるはずです。隠されていた「悪魔的なもの」が。百合=純潔という強固な結びつきが生まれるために、発生し、生まれた後は、退隠した「悪魔的なもの」が。悪魔的? 大いにけっこうです! 私たちは、すでに男性的主権権力によって、悪魔的と判断されたリリスを知っています。私たちはそれを知る目睫の間に迫っています。


 しかしもう少し説明しましょう。男性が抑圧した女性の部分は、「無気味なもの」となって、還ってきます。そう、フロイトの「抑圧されたものの回帰」です。そしてまたフロイトは、「無気味なもの」となった「抑圧されたもの」は、実は身近にあって抑圧されていたものだと見抜いています。


 この「無気味なもの」は、実際にはなんら新しいものでもなく、また、見も知らぬものでもなく、心的生活にとって昔から親しい何ものかであって、ただ抑圧の過程によって疎遠されたものだからである。またこの抑圧への関係こそ、今われわれにシェリングの定義――無気味なるものとは、秘め隠されているべきはずのもので、しかもそれが外に現われたなにものかである――をも明らかにしてくれるのである。³⁶


「この公式は、象徴に関するフロイトの態度をも要約している。フロイトは象徴を一貫して抑圧のメカニズムに結びつけるのである³⁷」とアガンベンが続けて言うように、「悪魔的なもの」というアレゴリーのそれは、「無気味なもの」という精神分析のそれと重なります。そしてこの「昔から親しい何ものか」が「無気味なもの」であり「悪魔的なもの」の正体です。それはとても身近なものだったが、今では遠い世界からやってきたように思えます。自然の外に、人の高貴な精神があるとニーチェはかつて述べ、クラクストンは、その精神が「自然・地球・女の身体」を蔑ろにしたのだと言います。「女の身体」とは不合理なものだと、メルロ・ポンティは述べています。³⁸もういいでしょう。私たちは、こう言うことができます。「悪魔的なもの」とは「リリス」であると。


 つまり百合=純潔というアレゴリーは、「百合/純潔」と分けることから始まり、そのとき「/」にこそ、「リリス」が潜んでいたということです。しかし「百合=純潔」と結ばれたとき、「リリス」はまさしくアダムとイブの結びつきから逃れた女のように、退隠させられたのです。ですから「百合=純潔」というアレゴリーは真実味を増すのです。

 ここで言えること、それは。最後の結論。


 ③ 百合を純潔に繋げる境界にリリスがいる。ということです。

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