第5話

 見田は決断をしたものの誤解されることに一抹の危惧は覚えていたが、園街は軽快にその不安を蹴り飛ばした。

「あはは、三田くんおかしくなったの?」と見田の話を聞いた園街は笑った。

 見田はどこでルートを間違えたのかと彼は頭を抱え込まんとする勢いだったが、園街の回答に些か安堵し、息を吐いた。彼が煙草を吸っていると、受話器の向こうで園街が言った。「いいよ、暇だし。行くよ。どうせそんな遠くなかったと思うし、もう会社も辞めちゃったからさ……。うん、疲れたからさ、ちょっと休もうと思って。だから気晴らしにでも、また一緒にお酒飲もう? あたしこないだ精神科でいい感じのおくすりもらったからさ、それで乾杯しようよ」

 見田は煙を宙に投げかけると、灰皿に一旦煙草を置き、彼女の提案を、薬事法違反を理由に丁重に断った。しかしいずれにせよ、なんなく無事にその日の夕方に園街が彼の家を訪れることで話はまとまった。

 午後になると見田は浴室の扉に背を付けて、内側から聞こえるアヤナの声に耳を澄ませることにした。昨日や一昨日と変わらずに彼女は、同じようなコメントを読み、同じようなことを言い、同じような感情を画面の向こう側に伝えようとしていた。そして自分のことを思った。自分とアヤナを頭の中で横に並べてみると、どちらが優れているかなんてことは蜘蛛と天空を比べるようなもので、まったく意味を為さなかった。そこに一筋の旋律が、風にたゆたって流れてくればいいと彼は思った。それは奇蹟のように真っ白で、ばらばらの輪郭を有する物体たちの内側に溶け合い、浸み込んで、それらの本来持つ独特の弾みを大きくさせてくれる。


 園街は日が暮れてからやってきた。部屋に暖房が効いていることを確認すると、厚いコートを脱いで、冷たくなった頬を手で温めた。見田は挨拶もそこそこに園街を洗面所に案内した。園街はセーラー服のアヤナを見ると、途端に顔をしかめた。現状は見田が解説するまでもなく、園街には理解できたようだった。むしろ、彼なんかよりもずっとそのことを把握しているようだった。見田は扉のところに立って、黒い髪で、目立たない皺に日々の疲れを刻み、明日のことにも精一杯な園街綾奈と、髪が青く染まり、目の奥に画面の発する光を投影し、日々を間接的な交わりである通信に溶かしこんだ少女であるアヤナとを見ていた。

「なんであなたはそこにいるの」園街はバスタブに近づき、そこに佇む人影を見下ろしながら、厳しさを込めた口調で言った。

「そんなの知らないよ、でもそんなの当然のことじゃない?」アヤナは今でもノートパソコンを開き、その上に目を凝らし、顔を園街の方には向けなかった。

「……私はここにいるのよ、いずれにしても」園街は言った。

「アヤナだってここで日々をちゃんと生きてるんだよ。それにここには多くの人がいる。誰もが大きな力を持ってなくても、少しずつ欠片のように自らの断片を渡し合って、助け合って暮らしている」アヤナがそう言うと、見田には実際にバスタブのアヤナの周りの隙間が濃密で、流れのある空間に思えてくるのだった。

「それはそうかもしれない、私の弱さがあなたを生み出してしまったのかもしれない。けれど今私はここにいるわ。どうせ、あなたは嫌なことから目を逸らして、迷うことにも疲れて、そこに辿り着いただけでしょう。流木のように。何かがそれで変わったのかしら」

「ネットは独立な個人同士を貫く力を持っている。そんなこと、あなただって知ってるじゃない。現実に倦んでるわけでもないし、誰かを憎んでるわけでもない」

「でも、あなたはそこにいる。誰かは誰かの場所を奪ってしか存在できないことをあなたは知るべきだわ」

 アヤナはツイッタークライアントcrowyで五つのリストを表示させて、そこに移ろいゆく人の思いに目を澄ませていた。そしてぼそっと吐き捨てるように言った。「ねえ、そんなんじゃああなたは苦難を他人に押しつけて、それで満足する毒虫としか思えないよ。足を引っ張ることが人生の唯一の喜びだなんて浅ましすぎる。アヤナはちゃんとここに辿り着いたんだよ。誰にとってもそんなことを否定する権利なんてない」

「誰にも否定できないなんてそんなことないわ。だって私は私だもの」

「じゃあ三田くんは?」

「三田くん?」園街が出鼻を挫かれたように訊き返すと、アヤナは自嘲するように呟いた。

「三田くんだって、本当は好きな人だっていない癖に、すぐに女と遊びに出かけるのよ。毎度毎度後悔するのが分かっているのに、習性のように女と寝るの。ねえ、でもこれって責められること? あるいは、アヤナと三田くん、どちらが優れているかって言ったらそんなの同じなんじゃないかしら。人間なんて、ほとんど皆がそうやって自分の弱いところを抱えながら生きてるんじゃないの? アヤナひとりが間違ってるなんて、そんなの納得できないし、説教されるいわれもないわ」

「そんなのただの傲慢な言い訳よ――」園街はちらっと見田を一瞥すると、歯切れ悪く言った。「大体三田くんは、その……いいのよ」

「三田くんは、最低限文化的な生活に最低限度必要な気勢をもってしか挑んでいないのよ」

「そういう生き方を取る人がいる、そのことは確かに私だって認めるわ」

「お、おい。そんなこと言ったってね、僕だって――」傍観していた彼は予期外の指摘に、目を白黒させて慌てて口を挟んだが、それは園街へのアヤナの言葉に打ち消された。

「とにかく」アヤナはキーボードを叩いた。「アヤナにとってこれは最良の選択なのよ。分かるでしょ? アヤナはそうしないとダメになっちゃいそうだったのよ。あの日から一歩も前に進めない気がしていたの。ずっと足枷を呪いのように嵌められて、歩き続けてもこの先身動きが取れなくなることは目に見えていたわ。溺れるしかない運命だったの。それでもアヤナはアヤナであろうとして、道を選んだのよ。あなたもアヤナだったのなら、分かるでしょう? それともあの日のことを忘れられた?」

 園街は一瞬、戸惑いの表情を見せたが、すぐにそれまでの顔つきに戻った。「あの日ってなに?」

 見田は心を落ち着かせると、いつかのオフ会で園街が零した苦悩を頭に浮かばせた。そうすると考えるまでもなく、今の彼女の心中を察することができるのだった。

「あの日っていったらあの日よ」アヤナは言った。「かなしくて、つらくて、どうしようもなくなったあの日。アヤナが、そしてあなたが歩むのをやめてしまった時のことよ。もう、我慢して意気がるのはやめたらいいんじゃない?」

「私は――」園街は、語調を強めて言った。「そんな日のことは知らない」

「嘘」

「嘘じゃない」

「だって、そんなはずあるわけない」アヤナはぶっきらぼうに言った。

「私にとっては、生きてきたどの日だって掛け替えもなく、大変な一日だったもの。そんな過去の一点を指差されても知らないわ。もっと良い日だってあれば、もっと死にたくなる時だって何度だってあったのよ」

「未来が絶望的ならそんな道を取る意味なんてないじゃない。そんなのって……」

 園街は諦めたように、諭すように、ひとりごとのように言葉を投げかけた。「あなたは、大してどうでもいいことをさも世界とか人生のせいにして、大袈裟に物語ってるだけよ。死にたくなるなんて、そんなの生きてれば当たり前なのよ。本当はそんなこと知ってるでしょう? 本当は寂しかっただけなのよね。私にだって分かるわ、とっても。なんたって私のことなんだからね。でもそうであれば、そこに留まるべきではないわ、自らが居るべき場所に還って時の流れに身を委ねなさい。タンブルウィードのように他人の邪魔を演じるのはやめるのよ。どれだけ厳しくても、自分が壊れそうになったとしてもきちんと守るべき場所は守るのよ。それは次第に分かるようになってくるし、分からなかったのなら今分かりなさい」

 一瞬どちらもが口を噤み、地上の凍えるような沈黙が場を覆った。見田は鈍色をした蛇口のくすみを見た。水はぽつ、ぽつ、と等間隔で滴り落ち、時の流れの強引さを表明している。それからアヤナは初めて画面から目を離し、園街の顔を見て不機嫌そうな表情を露わにした。そして冷たく言い放った。「ねえ、結局のところあなたが何を言ったって、どんな助言も文句もアヤナに理解する義務なんてないのよ。分かってる? ある人にとっての特別な意味はその人自身にしか通用しないものなの」

「ええ、そうね」園街はアヤナの目を見て、それに答えた。「確かにそう。でも、私は言いたいことは言いたい時に言うって決めてるから。あとはあなたの中の話でしかないわ、そこに私は入れない」

「あと、ひとつだけ言いたいんだけど」

「なに?」

「別にアヤナは寂しかったわけじゃないから」

 アヤナは今までで最も鋭い眼光をもってそれを吐き捨てると、発光する画面にまた目を落として、それからはもう二度と顔を上げることはなかった。


   ※


 それから何日か経って、見田が外から戻ってくると突如としてアヤナはいなくなっていた。それは何の前置きも、仄めかしも、暗示もない退去だった。見田は二週間ぶりくらいに自分のシャワーを思う存分、誰の気を慮ることもなく浴びることができた。注ぎだす湯が蒸気を上げ、彼の身体を内側からやさしく温めた。最初こそ彼女の甘い匂いが残って、彼の身体に巻きついてきたけれど、ものの数分もすると、それらは、物事がいずれはそこへと収縮していくところの運命というものを従順に心得ているかのようにして、綺麗さっぱり、何事だってなかったのだとすら言いたげに、流され、霞んで、消えてしまったのだった。

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バスジャック 四流色夜空 @yorui_yozora

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