第4話

 どんな名地の特産物でも鮮度が失われれば、それはなんら一般流通した大量生産品と変わるところがない。大抵のものは本来持っていた刺が抜け落ち、輝いていた響きのようなものが薄れて、他と見分けがつかなくなってしまう。メジャーに出たアングラバンドに価値はなく、初夏と晩夏以外に鳴く蝉は害でしかない。終わらない悪夢など人生そのものだ。それはつまり、喉元過ぎればなんとやらいう人間の悪しき業を示しており、現状にそのまま繋がる教訓を有している。

 見田はそんなことを半額になってサンドイッチよりも安価になったパック寿司をつまみながら思った。アヤナの配信形態はゲームでもなく、企画でもなく、顔出しの雑談放送だった。時にはコミュ限にし、時には凸待ちのタグをつけた。アヤナは人の共依存願望をくすぐったり、劣情を煽ったりするのがうまく、テレクラまがいのスカイプが来ることも少なくなかった。一度アヤナは中年の男性からしつこいコールが来た時に、マイクをミュートにして見田を呼んで、おかしそうに相手の男性が自ら喘ぐのを聞かせてくれた。それは人間の根底に潜むおぞましい声だった。それを内心でほくそ笑むのが堪らないのだとアヤナは嬉しそうに語った。彼女の髪は青く、甘く匂った。声の色は口調と違って、何事かについての諦めとあらゆるものに対しての赦しを感じさせた。そんなことが当然の環境になりつつあるのを感じ、見田は些かの安堵を感じ、自らの適応能力に恐怖を抱いた。

 見田はホテルでシャワーを浴びてベッドに寝転ぶ、高校の時の同級生にそのことを話した。その女と彼は、月に一回くらい会って身体を交えることがあった。月に一回以上してしまうと飽きが来るし、もっと期間を空けてしまうと互いに動かす身体や心のリズムといったものを再びつかむことが難しくなってしまうのだ。誰かと寝ることは意外と労力の要ることなのだ。しかし彼はそれ以上の快楽を知ったことがなかった。

「シャワールームに青色の髪の女の子が現れたんだ。考えられないだろう? しかも突然、なんの予告もなしでだよ。あれで参らないやつがいたら見てみたいね、本当に。その上それがさ、そこから引っ張り出そうとすると、電気を発するんだ。ビリビリって感じでね。目には見えないけれど、でもそれは確かに起こっているんだ。なぜかって言えば、実際に家具や棚やまあそういった部屋のなんやかやがそれにやられて勝手に動き出したからさ。いや、本当にあれは見ものだったな。なかなかお目にかかれるもんじゃない。そこら中にあるものが一斉に騒ぎ始めて、さながら付喪神の氾濫って感じだったんだ。初めはポルターガイストかと思ったけど、彼女に聞けば、放電っていうもんだからさ。それでようやく僕は納得したんだよ」

 女は遮光カーテンの隙間から射し込む月光の白線に、折り畳んだ足を置いた。「ねえ、これ可愛くない?」女の足の爪には緑でキラキラと光ったマニュキアが塗られて、仄暗さの中で星のように落ちていた。

「うん、可愛い。綺麗な色だね」

 女はある程度満足したのか首を少し振って、布団に潜り込んで、ベッドの端に腰かけた見田の服の袖を引っ張った。

「しかもその女の子ってばシャワールームからずっと出てこないんだ。ずっとだよ。本当信じられない、彼女がどうやって生活してるかと言ったらね――」

「ねえ、服脱いで」

「うん」彼はさっき行為をした際の興奮がもう一度血液に命を吹き込まないか、確かめながら服をまた脱ぎ始め、それらを椅子の上に置いた。女はシャワーを浴びてからというもの、下着の他に身につけたものなどピアスくらいなものだった。彼が服を脱いでいる間、女は瞼を閉じてゆっくりと何事かを思案し、そして彼に言った。「まあ、その女の子が中心に物事が起こるのなら、それはポルターガイストっていうよりもRSPKに近い気がするわね」

「RSPK?」彼は靴下を脱ぎながら訊き返し、ベッドの中に潜り込んだ。

 女は天井を見つめながら言った。「RSPK、周期性不随意的サイコキネシス。つまりそれは人の心に基づくってことよ。潜在的で無意識下の心が、念動力を発するのね。それで気持ちの上ではそんなことしたいと思ってないとしても、心の奥底の洞窟で横たわってる真の願望が、信じられないような力をもってして物体を動かすってわけ。……まあでも、その子が放電って言ってるなら放電なんでしょうね。そっちの方がなんか可愛いし。ついでに黄色くて耳と尻尾のついたパジャマを買ってあげるといいわ」女は首筋のところまで布団を引き上げて、見田の身体に自分を擦り寄せた。「でも、ただひとつ問題がある」

「なんだい、それは」

 女はぬくもりを確かめるように彼の背に腕をまわした。女は見田の耳元で囁いた。

「そのジョークがあんまり面白くないってこと。十才の子供じゃないんだからさ」

「じゃあこれがもし本当だったら君は驚いていたかい?」

「そしたらあなたが統合失調症なだけね」

「なるほどね」彼は目を瞑る。


   ※


 アヤナは自らの身体の上を流れゆく白地の文字に夢見るように語りかける。

「わこつー」と文字が言い、「こんにちはー」とアヤナが言う。「痩せた?/今日もヘラッてるの?/狭そう」という文字。アヤナが笑う。「付き合ってる人いる?」という文字。「えー、いないよ」と言うアヤナ。「いつも見てます。/かわいい、好きです。/家出したらうちおいで」文字。「アヤナも皆のこと好きだよ、だから見捨てないでね……」アヤナ。時々スカイプがかかる。今度は肉声だ。「あ、あの……ネットには危ない人も多いですから、気をつけて下さいね。男なんてただの獣ですから……」若い気弱そうな男。「分かりましたー。ありがとー、気をつけるね」「……ところでこないだ放送してない時期があったけど、BSPの男と会ってたわけじゃないよね」「うん。違うよ、もちろん」「そうだよね。でもさ、顔出し配信自体これからは控えた方がいいかもね。な、悩みとかあったらさ、僕でよかったらいつでも相談乗るし」「うん」「なんか不安なんだよ、見てると。配信の仕方教えたいから、今度時間取れないかな。直接会った方がいいと思うんだけど」「ごめん、アヤナそういうのだめなの。誰とも実際に会わないことにしてるから」アヤナがやんわりと誘いを断ると、男は声をいきなり張り上げた。「なんだよ! お前もどうせ男ができたら、引退して消えるんだろ! お前みたいのが、一番苛つくんだよ。ふざけんなよ、このメンヘラクソビッチが!」アヤナは通話を切って首をわずかに振る。そして苦笑う。同調のコメント。「何だ今の凸。/凸者空気考えろよ。/気にしない方がいいよ」同調、同調、同調、同調……。


 見田は求人誌をめくりながら、アヤナの交信に耳を傾け、暗くなると扉越しの彼女に一声をかけて、銭湯に行った。夜になるとバスルームが使えないので、彼はリンスインシャンプーとタオルを携え、外出する前に、近隣の銭湯に立ち寄るようになっていた。女と遊び、行為に到った後にはシャワーを浴びることは珍しくもなかったが、けれどいずれにせよ一連の情事の滑り出しの部分、待ち合わせの際の邂逅においては清潔な身だしなみで臨む必要がある。物事は得てしてそういうものだ。

 このままじゃいけないと彼は思った。毎日銭湯に通っていたらお金がかさむし、何より大勢の人のいるところで毎度のごとく入浴せざるを得ないというのは、彼にとって気の滅入ることだった。その日、見田が銭湯に行くと、古ぼけた老人が受付に新しく入った中年の女性と何か口論をしているのが見えた。見田はその老人を知っていた。この銭湯によく来る客だ。見田は先にお金を払い、脱衣所で服を脱ぎ、湯船に浸かって脳に血流をまわし始める。人影があっても足を伸ばせないことはない。そうもすればやはり、理屈以上に銭湯は人類の素晴らしき発明品であることを訴えかけてくる。

 結局のところアヤナは何者なのだろうか、と彼は湯船の端の方で手持ちのタオルをアイマスク代わりにして思った。何も口にせず、外の世界に一歩も足を踏み出さず、蛇口から水を垂らすと、ひどく怒って物を投げつける彼女はいったい何なのだろう。手で触れることもできれば、会話をすることもできる。ちょっと暗い感じで口が達者な十五才のただの少女だ。しかし、アヤナの言うことを信じるとすれば、彼女は過去の園街綾奈ということになるのだろう、多分。つまり過去になんらかの心理的、あるいは物理的なトラブルがあって、現在に迷い込んでしまったのだ。そうでもあれば、やはり本人に連絡をした方がいいのだろう、この場合。けれどなんて言って申し出ればいいんだろう。過去のあなたがやってきました? 部屋にあなたが現れて大変なのです、責任を取ってください?

 どちらもウィットに富みすぎているし、さして顔馴染みでもないくせに、新手の出会い厨か何かだと誤解されるおそれすらある。あるいはなんらかの社会的なストレスによってノイローゼにかかっていると見なされてしまうかもしれない。それが本当はアヤナによってもたらされたノイローゼだとしても、それらは外からは判別の容易なものでもないし、わざわざ区別したがる人もいないだろう。

 彼は湯船で、長い間、絡まって毬のようになった思考を解きほぐそうとしていたため、脱衣所でのぼせた身体を扇風機に当てていると、受付で言い争っていた老人が浴場から上がってくる時間帯が重なった。その老人とは以前にも見田はいくらか言葉を交わすことがあった。そんなに豪奢な銭湯でもない限り、ロッカーや鏡台の譲り合いの際に挨拶が必要となるためだ。あるいは年老いた人間の多くは他人のとのコミュニケーションに心理的障壁を感じることがない。身体を一通り拭いて下着を履くと、老人は木でできた涼台に座る見田の隣に腰をかけた。

「何を言い争っていたんですか」見田はそれとなく横の老人に訊ねてみた。

「ん? ああ、これだよこれ」老人は皮から血管の浮き出た右腕を回して、背のところを指差した。見田が身体を逸らして、老人の背を仰ぎ見ると、そこには昔取った杵柄のように背筋がすっと通っているのが分かった。その上の肩のところに蛇の形をした問題のしるしが顔を覗かせていた。

「ああ、刺青ですか」見田は納得して言った。

「そうだ、若かった時に入れたのが残ってるんだよな。ここの主人とは馴染みでな、いつもは気にせず入れてもらってたんだが、受付の奴が新入りだったらしくて、そのことを聞いてなかったらしい」

「はあ、大変ですね。僕も一時期迷ったことがありましたけれど、入れなくてよかったな」

「こんな小さいのもわざわざ咎められるんだ、窮屈な時代になったものだ。まあ、時代の見方っていうのは、坂を転がり落ちる小石のように、飽きもせず変わるものだから仕方がないっちゃあ仕方がないが」老人は滲んできた汗を小さなタオルで拭った。「なんだって本当のことは自分で決めるしかないんだよな、実際の話」

「けれど変わらないことってきっとありますよ」見田は言った。

「もちろん、そういう見方もあるし、私の幾らかの部分はそれに基づいてるさ。移り変わるものもあれば、行き場をなくした風のようにそこに留まって腰を落ち着けるものもある」

「例えば」見田は言った。「例えばですが、何もいない部屋の中に人の思いが流れ込んできて、動かなくなる場合もある」

「そういったことは実際にあるんだ」老人は遠くを見るような目つきをした。「うちにもあるよ、そういうことは」

「でも家にいきなり知らない影が入り込むっていうのは不気味なものですよね」

「いや、そうじゃない。死んで成仏しきれなかった魂なんて五万とある。大抵は幽界に入っても地上への執着を抜け出せないのさ。もちろん良くない怨念に固執してしまった霊は、地上に害を及ぼすこともある。螺旋階段を下りるようにして、どんどん悪い方向へ行ってしまい、自縛霊になってその場からどこへも行けなくなってしまうこともある。そういったものはほら、ラップ現象なんかを起こして周りに助けを求めるものさ」

 見田は扉の外にアヤナが出た時に生じた室内の異変を思い浮かべた。

「けれどね。うちに出たものはそうではない。私たちは深く愛し合っていたんだ、本当に。だって出逢ったのは戦争も終わった頃だったろう。私たちは幾多の苦難を二人で乗り切ってきたんだよ。時代は生活難に苛まれていた、そりゃあ食料もなく――」

 昔の思い出を語りだした老人をあとに見田は着替えると、銭湯を出た。回想に一度嵌り込んだ者を引っ張りだすのは容易なことではないのだ。大体年老いたものの感じる家内の霊なんてものは、大概がPTSDにおけるフラッシュバックと同じ類か、あるいは年による認知症における幻視でしかない。そうであれば、アヤナの問題ではなく、自分の問題ということになる。それはすなわち、身体と脳の問題だ。見田はコンビニによっていくつかの甘いものと煙草とカロリーメイトを買った。冬の風は厳しく、身体が早急に湯冷めの危機に晒されているのを感じた。見田は自分が、イソベル・ガウディのように悪魔との契約の岐路に立たされている気分になった。家に近づくにつれて、その決断の時が迫りきて、焦慮の思いが喉をつくのがはっきりと分かり、彼は煙草を吸った。煙が白い息に重ねられ、不自然な白さを二乗する。街路樹の枝は木枯らしに揺られ、来たるべき春の息吹に待ちくたびれたように、粗雑な音を立てていた。猫の目が自動車のヘッドライトに対抗して夜に光っていた。道を歩く人は彼しかいなかった。煙草は排水溝に放り込まれ、その一生を終える。風は象られる形を先天的に備え、そのうねりは潜在的な響きを感じさせていた。彼は近づきつつある便りを読もうと目を凝らし、耳を澄ませ、心を無の状態に保とうとする――。

 込み上げていた思いはしかし、ある一点を通過したところで途絶えてしまった。途絶えたというよりそれは通り過ぎてしまったのだ。それはふと見れば立ち消えてしまう飛行機雲のように、誰かの願いを叶えなかった流星のごとく。あるいは、性交が終わって快楽が思い出せなくなるように。どうでもいいか、と彼は思った。サイコパスだろうが、サイコメトラーだろうが、エクトプラズムだろうが、ドッペルゲンガーであろうが、自分に何かを決定する裁量などはなから与えられてはいなかったのだ。

 実際、彼にはどうでもよかったのだ。何も興味がなく、何も関心がなく、理想も空想もありきたりの夢でしかないと諦観してしまった、彼には。そうして、彼は園街に連絡することを決めた。

 冷え切った夜は街に沈み、燃料の底をついた息の白さが濃さを失って、本格的に寒気が身体の芯に響き始める。彼はアパートの階段を上がり、エアコンのついた部屋に入ると、上着をハンガーにかけて、深い息を吸って身体に暖気を取り込んだ。彼が手を洗いに洗面所に行くと、アヤナがノートパソコンを畳んで膝の上に乗せ、目を瞑ったまま、十指でその銀の天板に軽快なタイピングを奏でているところだった。そうしてその甘く、外の闇を知らない声で微かに歌うように唱えているのだった。

「ぴ、ぽ、ぱ、ぴ、ぱ、ぽ、ぴ。たっ、たっ、たらっ、たっ――」

「何してるの?」

「……発信」彼女は薄く目を開けると、静かに言った。そうして誰かに見られていたことを忘れたがるように、ラップトップをひらいた。

「ねえ」見田は石鹸で洗った手をタオルで拭くと、訊いた。「なにか食べない? それとも何も食べたくないの?」

「言ったじゃない、アヤナはネットの人たちとの相互連関の中で生きてるからいらないの。でも、……くれるならもらうけど」

 見田はレジ袋からローソンで買ってきた杏仁豆腐のカップを二つ取り出して、その片方と付属のスプーンを彼女に渡した。蓋を取って、それを口に放るとアヤナは目を丸くして、頬を緩めた。そうして思い直したように、再びそっとノートパソコンを閉じた。見田は壁に寄り掛かって杏仁豆腐を食べながら、アヤナの表情を見守っていた。それは単純に微笑ましいような光景だった。不純なものが一切排除された、ある種の隙間のない平穏がそこにはあった。

 アヤナはそれを食べ終わると、「はい」と容器を見田に突きだし、彼はそれを受け取った。アヤナはバスタブの隅を見やると、恥ずかしそうに言った。「ねえ、あんまりここに来ないでね」

「どうして? おいしくなかった?」

「おいしかったわ。だからよ」

「ふうん」

 見田はとりあえず、首肯してシャワールームを出たが、こんなことってなかなかない気がして、ちょっとだけ素敵な気分に浸って、その日はいつもより早く眠ることができた。

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