第3話

「えーっとぉ……」

 舌足らずな声が部屋の白い壁に当たって反響し、マイク機能も備わったロジクールのウェブカメラを伝って、画面の向こうの人々に呼びかける。その狭い部屋には彼女しかいない。ドアは閉められ、水色のカーテンは引かれている。さらりとして青い髪は、彼女が頭を微かに動かすごとに、頬を緩ませるごとに、宙を遊ぶようにして揺れる。大きなぱっちりとした瞳は、物憂げに画面上に漂ってそこに映される文字を読む。

「最近、どうも調子が上がらなくて……。眩暈が止まらないし、寝ようとしても全然寝つけないの。おくすりも多めに飲んだのに、おかしいよね……。死にたい? 死にたいなあ。みんなで早くぐっすりと眠れるといいね、みんなではやくあっさり死んじゃえるといいよね……。私はもういいんだ、何もしたくないし、頑張ってる人は頑張りたい人なんだから、死にたい私は死なないとね、おかしいよねこんな世界、あっさり死んじゃえるといいよね、早く眠れるといいなあ……」

 彼女の声は箱のようにその身を取り囲んだ壁たちに半ば幻想的に反響され、無線LANを通り、誰かの元へと糸の端が渡される。そのようにして、ライブ配信は日夜取り行なわれる。彼女は自らの表情や仕草をインターネットの電波の波に乗せて全世界的に晒し出し、それを見た、こちらからは顔の見えない人々が勝手気ままに自分の仕方で返答をする。それはコメントであり、宣伝であり、荒らしであり、時にはネトストといった形で現れた。それは傍から見れば、彼女の身体が嬲られ、精神が踏みにじられ、弄ばれる痛々しい類の行為に他ならなかった。一方的に人格がコンテンツ化され、消費され、見世物として嗤われる、リスクしか後には残らない有毒な営為。

 しかし、それが彼女の言うところの充電なのであった。彼女は碌に知らない誰かしらからの反応を餌にして、生命を維持する奇妙な生きものであった。彼女は普段はニコ生やツイキャスで配信をやり、危険な、例えばリストカットや煽情的に下着などを見せる際には規制の弱いZAN9やfc2に移動して、自らをカメラの前に差し出した。それはアブラハムがイサクを差し出すように、従順であり、宗教性に満ちていた。

 その様子は、扉を挟んだ見田のいる居間まで聞こえてきた。彼はとりあえず、煙草の先についた灰を灰皿の角で叩き落とし、窓から冬の凍えた空ののっぺりとした青色を見て、煙混じりのためいきを放るのだった。

 見田は悩んでいた。最早性欲で気分が優れないとかはどうでもいいような気がした。なぜアヤナは風呂場にいるのか、そしてなぜそこから一週間も出ていかないのか。そんなことがすっきりさっぱり分からなかった。


   ※


 見田ははじめアヤナを見た時、それは眠れば立ち消える類の現象だと思っていた。それは闇に落ちる雨粒のように。あるいは、土にまみれた枯れ葉のように。しかしその晩に見田が目覚めると、暗い室内に洗面所のドアの隙間から人工的な明かりが零れているのが見え、そして棒読みちゃんの淡々とした声がぽつぽつと流れているのが分かった。見田はセパレート式の賃貸を借りていたことに殊更の感謝を捧げ、トイレを済ませると、洗面所の扉の前に立った。

 電気を消せば中身も綺麗さっぱり消えるのではないか、と彼は思った。そうして彼は実際に洗面所の電気のスイッチをパチパチと押してみた。

 しかし、操作に合わせて洗面鏡の上部の電球は明滅するものの、肝心の風呂場の明かりは、彼が何度ボタンを押そうが、点灯の状態のまま弱まることもなかった。

 見田が意を決して扉を開くと、アヤナはバスタブに背をつけ、首を垂れてうとうとしていた。カメラに映らないように、ライブ残量を確認すると丁度あとわずかというところだったので、彼はそれを待つことにした。奇妙な光景だ、と彼は思った。狭い空間に棒読みちゃんのコメントを読み上げる声がディレイをかけたように反響し、ウェブカメラは空のバスタブに蹲るセーラー服の少女を映し続けている。見田は不意にある種の恐怖を感じた。これは監禁かなんかと間違われ、住所を特定され、自分にあらぬ疑いがかけられる恐れがあるのではないだろうか。そうでなくともライブ配信者には犯罪を起こすものが矢鱈といる。アクティブ数を伸ばすために、ランキングの上位に載るために、奇行に走ってしまうのだ。包丁を振りかざし、殺人予告をして、夕方のニュースに放送されてしまう者。あるいは、知識の少ない女子高生のリスナーを食いものにする者。あるいは、親の金もつぎ込んでFXで二千万円もの大金を溶かしてしまう者。あるいは、皇居の堀に入浴剤を投躑した者。例を上げればキリがない、そんな危険発生区域をサイバーポリスが監視してないはずがなかった。彼の頭にははっきりと、自分の両手が銀の鎖で繋がれ、そこに布がかけられるビジョンが浮かんでいた。ライブ残量がゼロに達すると、見田は最大限の冷静さでリモる可能性を察知すると、カメラをコネクタから引き抜いて、すぐにアヤナの肩を揺さぶった。

 するとアヤナはあからさまに不機嫌そうな声を上げた。「なに? 夜には寝るものよ。そんなの小学生だって知ってるわ。アヤナはほら、朝早くから発光してる画面を見るから、夜にはきっちりメラトニンが――」

「おい、大変だ。僕は犯罪者にはまだなりたくない」見田は慌てて言った。

「まだ? あるいは人間はいつかそれぞれの犯罪者になるものと言うわ。遍く人類は皆、一様に罪を見るものなのよ。その時期が早く来るか、遅く来るかというだけの違いでね……」そう言い残し、深い眠りに落ち込もうとしていたアヤナを見田は抱き起こした。

「詩人のようなことを言い残し、眠ろうとするな」

「え、なに。なんなの? 三田くん発情してるの、怖いんだけど」

「僕はお前なんか相手にしやしないさ、性欲の従属者ではあるかもしれないが、決して奴隷じゃないんだからね。でも、僕はその辺りで誤解があるといけないからこうやって、安らかな泥濘からアヤナちゃんを引きだそうとしているわけだ」

 ちょこんとバスタブの底に座り直したアヤナに、見田は重々しく命令を下した。

「まず、君はその手狭な空間から出たまえ」

「やだ」アヤナは即座に否定した。

「それはどういうことだい」見田はためいきを吐いて、腕を組んだ。締まりの悪い蛇口から水滴が数滴ぽたぽたと落ちた。「なんで、君は風呂場にいるんだ。いや、この際いつからという理由の追及はよしとしよう。しかし、いつまでここにいるんだ?」

「いつまで?」アヤナも呆れたように言った。「三田くんはどんな物事にもその最期を見る人間なのかしら。誰かと付き合えば別れを予期し、花を見つければそれが枯れて老いるのに怯え、なんらかの幸せに突き当たればいつか崩れる不幸を感じとってしまう人間なのかしら。それってあまり好ましい習性とは言えないと思うんだけど」

「僕はね、君の言葉遊びに付き合ってる暇なんてないんだ。なんせ僕は生憎、生活という最上にして厄介な代物を抱えているからね。そいつを遂行するためには想定外の因子を排除する傾向があって、僕はそれに抗う術を持ってないのさ。さあ、ほら立つんだ」

 見田はアヤナの手を取って、立たせることに成功したが、彼女はバスタブの中から一向に外へ出ようとはしなかった。

「ねえ」彼女は言った。「悪いことは言わないからよしといたほうがいいよ。アヤナはこの場所に留まって生きてるの」

「食べ物はどうするんだ? それとも君はクリオネさながら極度に小食の体勢を持っているのかい。拒食症はウケないぜ、この時代」

「ここにはノートパソコンがあるわ。ここで配信をすることによってアヤナの魂は浄化されるのよ。石をやすりで研ぐように綺麗になるの。つまりね、画面の向こうの匿名の人たちにアヤナがいかに汚い人間で、醜い存在であるかを見てもらうの。ハレルヤを口ずさむことでまた一歩神の国に近づくように、念仏を唱えて浄土の呼び声が来たるように、そうすることでアヤナのカルマが擦り減っていくのね。そしてその代わりにアヤナも皆のことを見てあげるの。彼らが、表社会では口にできず、表情にも出せない、脆弱で脂肪ばかりがついたドロドロの本心の部分をね。インターネットを介したそういう相互関係の連環の輪の中で充足してるのよ。他には何もいらないの。アヤナはここでしか生きられないのよ」

 見田はあまりアヤナのペースに引き込まれないように、彼女の手首をつかんで強制的に浴槽から引き出すことに成功した。アヤナが風呂の敷居を跨ぐと、切れかけなのか洗面鏡の上部の電球がピカピカと灯ったり消えたりした。見田はこのまま彼女を居間に連れ出し、何かを食べさせて、元ある居住地へと彼女を返そうと計画した。しかし交番に届けることを考えると、変な誤解が付きまとうのではないかと少し憂鬱にもなるのだった。

 扉を開けて彼女が一歩外に出ると、バチッとヒューズの飛ぶみたいな大きな音が後ろの鏡の上の電球から鳴ったが、それを気に留める者はひとりとしていなかった。見田は蛍光灯を点け、アヤナを机のところに座らせると、キッチンに立った。冷蔵庫の中には碌に物が残っていなかったために、彼はとりあえず牛乳を薄緑色のマグカップに注いだ。彼がそうしているとテレビの電源の入る音がして、画面は砂嵐を映しだし、薄く引き延ばされたノイズが部屋の中に吐きだされた。

「なんだい、テレビを点けたのか?」彼は戻りしなに言った。

 しかしアヤナは首を振った。「そんなことしないわ、テレビなんてどうでもいいもの、アヤナ好きじゃないもの」

 何か不思議な心地を抱えて、見田はリモコンでテレビを切ると、彼女にカップを手渡した。

「それでアヤナちゃんの家っていうのは――」そこで見田の言葉は大きな破裂音によって一旦遮られる運びとなった。彼は驚いて辺りを見回したが、音の発生源となるようなものに見当はつかず、どちらかといえば天井の方から聞こえたように思えた。彼がそちらに目をやると、今度はそこを行進が踏みならしているような物音が響きだした。見田はこのアパートに越して以来、隣人の騒音に悩まされたことなどなかったために、戸惑いの色を隠せなかった。しかし彼が少し押し黙ったところで、それが止む気配はなかった。その上、事態は悪化の傾向を顕著にした。テレビは再度勝手に砂嵐を流しだし、シンクに放置されていた食器類や本棚に納められた漫画たちが、カタカタと何かの予兆のごとく揺れ始めたのである。アヤナはそれらに気を払う素振りを見せずに、両手で抱えたカップを口元に当てて、静かにミルクを飲んでいた。

「一体どうしたというんだ」見田は既に憔悴した面持ちになっていた。「まったく勘弁してくれよ、うちに失われるべきものなんてないぜ」彼がそうぼやくうちにも電灯を覆う笠が、何者かが弄んでいるかのように彼の目の前で不自然にぐらぐらと揺らぎだし、供給された電気は切断し始め、部屋が視覚的にも聴覚的にも不安定なものになり、見田はその前では羊のようにうろたえることしかできなかった。それは地震よりも恣意的で、人工的で、悪意に満ちた振動だった。「これじゃあ、まるでポルターガイストか悪魔の棲む家じゃないか……」彼は、今はまだアヤナしか見えていないけれど、他にももっと奇怪な生き物がこの部屋に棲みついているのかもしれないと思った。それはもうびっしりと彼の寝床を悪霊たちが這い回す想像を余儀なくされ、彼もこの時ばかりは身震いした。

 そんな折、じっとして状況に動ずることのなかったアヤナが口を開いて何事かを呟いた。しかしその声は見田には届かなかった。

「え、何だって?」

「ごめん。アヤナの身体は放電体質なの。外に出ると、色んな物を壊しちゃうのよ。ねえ、戻りましょう?」

 何を言ってるんだ、と見田が訊き返す間もなく、アヤナは机や本棚から落ちてくる物々を避け、ひとりでにドアを開いて洗面所へと戻っていった。見田が立ち竦んだまま、その姿を見送ると、じきに天井の足音は遠ざかり、テレビのスイッチは誰に断ることもなくパチンと消え、見慣れた黒い画面となって、すべての物体の揺れはゆるやかに治まってゆき、そしてある一点を差し掛かるとそれらは完全に沈静化の調和をきたし、部屋の中は本来の静寂に包まれるようになった。

 見田はシンクに置かれた皿が割れていないことを確かめ、バスルームに行くと、アヤナはまた体育座りで、そこが定位置であるかのように浴槽の中に佇んでいた。

「ねえ、分かったでしょう?」彼女は笑窪を頬につくってクスクスと笑った。「大変なことになるの」

「ああ、これは大変だね。かなりのところ」見田は疲れ切った表情で言った。


 翌日になっても、その次の日もアヤナはそこにいた。時折眠り、そして起きてはパソコンの画面に目を凝らし、日記のように配信を行なった。ある日の午後、配信のいとまを見計らって、見田は彼女に訊ねた。

「君の年はいくつ?」

「何才に見える?」

「十五才」

「三田くんって、女の人のことになるとよく分かるんだね」

 見田がさあね、と首を振るとアヤナは挑発するように言った。「でもアヤナのことは分からないだろうね。三田くんなんて、本当のところ大事なことは何ひとつとして知ってやしないんだ」

 見田は黙っておもむろに蛇口を捻り、その水が服を湿らせた途端、アヤナは飛びあがって脊髄反射的に洗面台にあった石鹸を思いっきり見田の顔に向かって投げた。

「ちょっと! 何やってんの!」アヤナは怒気を発するとすぐに蛇口を閉めたが、時遅く首筋から染み入った水が背中の辺りを浸し、肌を透かしていた。

「いや、なんとなく……」見田が痛みの残る額に手を当て、謝罪を試みたが、アヤナは立ち上がって、シャンプーのボトルや髭剃りなんかを手当たり次第、彼に投げつけた。

「信じられない! 死んじゃえ!」

 見田が勢いに押されて外に逃げ、扉の陰に隠れると、じきに彼女の怒りは痛みに変わっていった。彼がそっと内側を見ると、アヤナは濡れた肩を抱いて青白い顔で縮こまり、身体を小刻みに震わせていた。室内に暖房は通っていたが、シャワールームにまでそれが届くことはない。彼はその時になって、罪悪感をひしと感じ始めた。彼がバスタブの近くにまで行っても、アヤナはもう怒る気力を失くしていたようだった。彼は堪え切れずに声をかけた。

「ねえ、シャワーを浴びたらどう?」

 けれどアヤナはただ首を振るだけで、何も言葉を口にしなかった。

「ごめん、ちょっとからかっただけなんだ。何もそんなに気を落とさなくてもさ」

 無言のアヤナに見兼ねると、彼は気まずく思案してから、部屋からタオルとドライヤーを持ってきた。彼がタオルで彼女の服の上から濡れたところを拭こうとすると、彼女はすぐにそれを奪取した。彼は何を言うこともできず、それに任せ、コンセントを差し込んだドライヤーをそっと手渡した。アヤナは当然の権利と言うようにそれを受け取ると、丁寧にタオルに制服やその下の皮膚の水分を染み込ませ、その上からドライヤーでゆっくりと乾かすことに専念した。彼は壁に背をつけてその様子を見守っていた。制服の裾や袖を捲くった時に見えるアヤナの肌は透き通るように不健康に白く、肉は驚くほどに削げ落ちて、肋骨が純白の下着の傍に浮き上がっていた。

 アヤナは制服や身体が充分に乾いたことを確かめると、ドライヤーとタオルを彼に返した。

「ねえ、もうやらないでね」彼女は気持ちの込もった視線を彼に投げかけたが、それはもう先程までの激しい感情は宿っていないようだった。

「ごめんね、もうしない」

「それなら許してあげる」そう言うと彼女はパソコンが濡れていないか確かめた。幸いにして、バスタブの奥にあったそれに被害はないように見えた。彼女は安堵の息を吐くと共に言った。「もう出てってよ、お酒臭い人は嫌いだから」

 彼女はやはり表情から読み取れる心象よりも随分怒っているようだった。見田は「分かったよ」と言って扉の敷居に片足を跨いだが、そこで思いとどまり、彼女を顧みると不思議に感じていたことを訊ねた。

「ところで園街綾奈って言ってなかった?」

「そうだけど」

 見田はそれを聞くとスマートフォンを操作し、オフ会で会った園街のプロフィールを表示させ、それをアヤナに見せた。「ひとつだけ訊きたいのだけど、それじゃあこれって君ってことになるの?」

「そうだよ」アヤナは、ほらと言うと、今度は見田に無事に起動した自らのノートパソコンを傾かせて、そこにあるツイッターの画面を覗かせた。彼が見ると、確かにそこには彼の知る園街綾奈と同じIDが示されていた。しかしあらゆる情報が全く等しいというわけではないようだった。

「でも、これ微妙にフォロー数が違くないか。POST数とかもさ」見田の会った園街では600前後のフォロー・フォロワー数だったのが、アヤナのそれでは120程度に留まっていた。投稿数も随分減っている。

「それはそうだよ、だってアヤナは十五才なんだもん」

「園街綾奈、十五才」見田は言った。

「その通り」アヤナは言った。「園街綾奈、十五才、特性は放電」

 そうして彼女はまだバスタブにいた。

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