第2話

 朝にホテルで女と別れ、見田は一人でバスに乗った。バスに乗ると、これから会社に行く車の群れや登校中の生徒たちが街を構成している様子が見て取れた。彼はアパートに帰ってから、ゆっくり寝ようと考えていた。ホテルでは六時間ほど眠ったものの、やはり身体のどこか死角の位置に逃げ込んだ疲労感が彼を病ましていた。一年中季節を問わず、女と寝ることを日課としていたような見田としては、このところの疲労感は不思議なものとして現前していた。アパートに着くと、彼は面倒そうに郵便受けを確認し、重い足取りで二階の自室へと階段をカンカンと上がった。冬の深まりが感じられる濃淡のない午前の陽が階段を照らし、彼は目の前に迫ってくるそれらに対して眩しそうに目を細めた。

 安普請のワンルームの玄関を開けるといつも、閉め切ったカーテンと行き先を見失った薄い煙草の臭いとが彼を待ち受けている。日課とはいえ半ば嫌気の刺す繰り返しは、擦り切れていくカセットテープのようだった。しかしだからといって人生に代替はなく、当事者はそれを大事に使っていくしかない。彼は部屋に入ると、キッチンに置かれたいくつかのペットボトルを市指定のゴミ袋に詰め、換気扇を回し、目を指先で擦りながら遮光カーテンを引いて光を部屋に取り入れた。そして欠伸をしながら顔を洗おうと洗面台のドアを開けた。

 彼はそこに入るや否や、端に引かれた水色のシャワーカーテンの向こうのバスタブに、何者かがいるのに気づき、目をぱちくりさせた。そして次に混乱が襲ってきた。見田はたちまちに呼吸をすることすらも忘れかねない様子となった。彼が洗面台の鏡の前で立ち往生していると、その何者かは気配を感じたのか三角座りで俯かせていた顔を上げ、その眠たそうな眼差しをこちらに向けた。さらりとした青い髪がシャワーノズルの下、空白のバスタブの中で揺れ、ぱっちりした深海色の瞳が彼を見た。

 それは十五、六歳といったところのセーラー服の少女であった。

「あ……、おはよう」少女はあどけない響きを滲ませた口調で、彼を見上げながら挨拶した。少女は白い制服の上にカーディガンを重ねていた。見田は彼女を目をまじまじと見つめると、辛うじてといった感じで声を絞り出した。

「君は……、なに?」

「アヤナだけど」

「いつからいたの?」

 見田が訊ねると、少女は天井の薄汚れた換気口を見た。「うーん、憶えてないわ。ちょっと前からだと思うけど」

「君と僕は知り合いなのだろうか」

「知り合い? そんなことアヤナに訊いてどうするの? 知らないわ、そんなこと」

 見田はアヤナの雲をつかむような話を聞いてるうちに、もしかしたら自分は今とても疲れているのではないか、そしてこの少女は自分がつくりだした幻覚なのではないかと思った。

 たとえばフォイエルバッハ。彼は、神とは人がうちに持つ感情の本質的な部分を外部に投影しているものだと言った。これによればすなわち、自らが理想化した人格をバスタブの中に、現実のように見てしまっても何らおかしいことはない。

 あるいはスピノザ。彼は、この世の中の全ての個物は神が様態化したものであり、そうでないものは考えられないと言った。その見地からすると、現実と妄想の差異などないのではないのだろうか。

 うろ覚えのそんなことでも考えてもみるならば、見田は彼女の顔に何らかの見覚えを感じるのだった。きっと無意識にずっと心のどこか、深層心理という箱の中で考えていたのだろう。そうに違いない。そしてこのことを自覚すれば彼女も消えるはず、と彼は思ったが、彼女は依然バスタブにいるし、次の彼女の一言でまた事態は無明のなかに落ち込んだ。

「でも、アヤナは三田くんに会ったことあるよ。四日前に」

「どこで?」

 忘れた、と返すと彼女は見田に構わず、バスタブの底の足元に置いたノートパソコンを二つある斜めの膝の上に乗せて、ひらいた。するとそれはスタンバイ状態から立ち上がり、彼女はタッチパッドに人差し指を当て、ブラインドタッチでキーボードをカチカチし始めた。タブブラウザをいくつもひらいて、彼女は何かをチェックしているようだった。

「それは、何をやっているんだろう。そしてアヤナちゃんはなぜここにいるのだろう」

「ツイッターのリストを遡って、ニコ生の有名生主の動向をチェックして、フェイスブックでイイネを押して、アフェリエイトのお金が入ってきているか見ないと」アヤナは見田の前者の質問にしか答えなかった。彼女の細く、雪のように白い指は慣れた鍵盤のように、キーをタッチし、ツイッターに「おはよー」と投稿し、リストに戻るとフローした過去のタイムラインのPOSTを表示させ、次々とお気に入りに登録していった。黄色いスターが一本調子な投稿欄に隕石のように散りばめられていく。

 見田は顔を洗い、アヤナの行動を横目に鏡を見て、入念に歯を磨いた。それが終わってタオルで手を拭くと、なおもスクリーンに張りつき、もはや見田のことなど歯牙にもかけていないアヤナに向かって見田は訊ねた。「ところで、フルネームは?」

「何か言った?」

「苗字」

 アヤナは疲れるから首を上げることすらもしたくないと無言の表明を示し、パソコンを凝視したままそれに答えた。画面に集中しているのか、その声には生気も感じられない。「園街だけど」

「ふうん……」見田は壁に背をつけて考えてみた。そしてひとつの出来事にぶつかった。彼はスマートフォンを取り出すと、ツイッターを起動させ、リストからあるユーザーに辿り着いた。それは異国の女性が煙草を吸ってる写真がセピア色に加工されたアイコンの、フォロー・フォロワー数はおおよそ600前後、POSTにアニメ色の薄い、日常系ユーザー。そしてその名前は園街綾奈。しかし、それが目の前の少女と同じであるはずがないことは明白だった。なぜならば、園街本人とは先日オフ会で実際に会っているからだ。園街は現在二十四才のちゃんとした大人であり、デザイン系の専門を卒業した後、フリーター期間を越えて、今は大手CDショップの社員店員として立派に働いている、と言っていた。細身ですらっとしていて、目の笑ってない印象がある。それに園街の髪は黒い。

 そのオフ会は四条河原町のチェーンの居酒屋で行なわれた。それほど現実での繋がりはないが、タイムラインではよく見る人たち、それはいわゆる同じクラスタ、同じ界隈に属しているということだ。集まった人は十数人で、各人それぞれが相互フォローの関係性にあった。見田はその日、習慣のように近くの知り合いの女とホテルで寝てから、そこに参加したために、なんとなく身体と頭にだるさを抱えていて、酒をたらふく飲んでそれを和らげようとし、皆の話に適当な相槌を打った。彼らは交際相手の話や、服薬している薬の話や、通院歴や、今クールのアニメについて、あるいは眠剤を飲んでから周りの人に電話をかけまくってしまうことなどを楽しそうに語っていた。見田はそれらの話に時折反応してもいたが、具体的な内容に関しては、今となっては思い出せなかった。結構な勢いで酒を流し込んでいたのだ。その飲み会でよく憶えているのは、宴もたけなわとなった終わりの頃に隣に座っていた女性と自分同士のことについて会話をしたことくらいだった。彼女は左腕に銀色のブレスレットを、耳にはシンプルなピアスをつけていて、黒い髪は長く背を滑り、カットソーに灰色のカーディガンを羽織っていた。それが園街綾奈だった。園街は呂律が回らなかったり、机に突っ伏すようなことはなかったが、着実に酔っているようで、濁った眼をしていた。見田はツイッターではあまり自分のことを隠していなかったけれど、園街とはそれほど濃密に絡んだことがなかったので、会話の糸口を見つけるのに多少戸惑っていた。しかし彼女の左隣の女性は寝てしまっていて、机の反対側の人たちは固まって話に夢中になっている。園街は静かにグラスを傾けていたが、ふと見田の方に顔を向けた。穏やかそうな表情で、先に話しかけたのは園街であった。

「三田くんは働いてないんだっけ? 確かそう言ってたね」

「まあ、バイトで食いつないでいる現状ですね」

「ねえ、私思うんだけどさ、脳内麻薬を分泌させるために、脳の中にハーブを植えるっていうのはどうだろう。皆にしてあげれば、これってかなり儲かるんじゃないかな。それに自分にも植えたら、もう上司の馬鹿にセクハラを受けるのに耐えなくてもいいし、きっと嫌なことがあっても乗り越えられるし、結構革新的で斬新なアイデアなんじゃないかな」彼が見るに彼女は実に酔っていた。それもあまりよくない酔い方をしてるように思えた。三田というのは見田のHNであった。彼も朦朧とした頭で言った。

「きっと大丈夫ですよ、いい方向に行きます。今はちょっと脳の調子が悪いだけですよ。僕も最近どれだけ女と寝ても快楽を感じなくなってきてね、困ってるんですよ」

「それは不感症ってこと?」

「ちゃんといけることはいけるんですけど。前より精神を駆り立てるものがなくなった感じですかね」

「私たちは楽しさを経験するごとに、ステージを更新させられてるんだよね。ほらゲームみたいにさ。もう後戻りはできないんだよ。より強い快楽がないとどんどん満足できない身体と心になっていく」園街は暑くなってきたのか、カーディガンの袖をまくり上げた。露わになった肌の部分には、茶色くくすんだ線の羅列が刻み込まれていたが、彼はそれを無視した。

「じゃあ園街さんは昔あったこととかを思い出すこととかないんですか」

「あるよー。中学のことも、高校も、大学であったこともね。楽しかったけど、随分ぼんやり過ごしてたなあ。あの頃は、ずっとこんな調子で万事物事が進んでいくんだなあって思ってた。そりゃあ靴が隠された時はこれ以上悲しいことなんてないって思ったし、好きな人の家に初めて泊まった時はこんなこと以上に嬉しいことなんて想像もつかないって思ってた。浅はかだったんだよね、何もかもが。そんなの今はどうでもいいことに過ぎないことになっちゃってさ、本当に。思い出せるけれど、前世の記憶っていうかさ、誰か別の人のことみたく感じて、どうしたって自分のこととは思えないんだ。あるいはいつからかの瞬間に私の人生は終わってしまったのかもしれないね。私は二度生まれ、どうしようもない人間として今を生きてる。どう、これっておもしろくない? 積み上げてきたことなんて気分次第で無駄になるよ。一切皆苦、確かなものなどないんだよ。これは本当でしかないんだ。ああ、どうせ輪廻の法則性から逃れるほどの善行なんて積めないんだし、次は草花に生まれ変わりたいなあ」

 見田はグラスを口元へ運び、園街の言葉に耳を傾けていたが、ふと気まぐれのように訊ねた。

「いつからなんです?」

「え、なにが?」

「その、自分が離れ始めた地点ですよ。何らかの理由があったんじゃないかと。あ、別に深い意味はないですけど」

 ううむ、と彼女はその細い指先を絡ませながら時間の中を泳ぐように考えだすと、煙草が半分焼け落ちるくらいの時間をかけて、行き当たった位置を答えた。「はっきりとは分かるはずもないけれどあたりをつけるとすれば、中学三年の時かもしれないね、やっぱり。あの時、私は初めて父親が母親を殴っているのを見かけてしまったの。多分、普通の夫婦喧嘩だと思うんだけど、間が悪くというか、浅い眠りから夜に覚めた私が目の当たりにしたのは、父が母の頬を張って、コップの水を頭にかけているところだった。私はもちろんリビングに入れずに、すぐに自分の部屋に戻って布団をかぶったわ。それに、次の日にはまるでそのことが幻だったかのように、家庭は円満にその機能を保っていたの。でも、当時は酷いショックを受けてね、どんな人の顔にもその人の裏側に潜り込んだ暴力的な眼差しが映ってるように見えたわ」園街は少し言葉を区切ると目の前のグラスを見つめ、思い出したように口に運んだ。「……それから、他人をあんまり信用できなくなったっていうのは事実かもしれない。まあ、今となってはそんなの必要悪だったよなあって感じだし、どうでもいいんだけどね。このところの慢性的な閉塞感とは何の関係もないし、そんなこと」園街の目はぐるぐるしていて、グラスを持つ手も今やぶるぶる悪魔つきのごとく震えていた。そんな彼女に見田は励ましの言葉をかけずにはいられなかった。

「あ、そうだ。園街さんは朝ごはんを食べてないんでしょう? 駄目ですよ、そんなんじゃあ。まずはトリプトファンをたくさん摂って、そして日光を浴びましょう。僕みたいに昼間寝てる場合じゃないです。燦々とした陽を見れば、脳内でセロトニンがちゃんと分泌されて、夜にはNMT活性が起こってメラトニンが合成されます。そしたら毎晩不安に悩まされることなく、すやすや眠ることができます。ゾピクロンの苦さにやられているから一日が駄目になり、精神が弱くなっちゃうんです。ゆっくり眠って、ちゃんとした自律神経を持てば、大抵の悩みなんて吹き飛びますよ。そしたら小さいことでも笑えるようになってきます。テレビのバラエティ番組でも自然と笑える日が来ます。それってとっても愉快ですよ」

 園街は目を細くすると、手元のグラスに結露した水滴の上を人差し指でなぞり、遠景に佇んだ或る人影に同情するような笑みを浮かべた。

「本気で言ってるの?」

「まさか」見田は返すと、手のひらを見せて酒を飲んだ。

 そうして二人は笑ったのだった。随分寂しい慰みだった。


 で、それがどうした、と見田は思った。目の前でカチカチやる青髪碧眼の少女が園街綾奈だという名前だとしてそれは別人ではないか、しかしアヤナは先程四日前に会ったと言った、四日前に僕が会った綾奈は園街綾奈だ、合致している、いやこれも酔ってたせいで記憶が改竄されているんだろうか、もしや僕が会った園街の髪は黒くなかったのか、などと見田が困惑していると、バスタブの中のアヤナが口を開いた。「ねえ……」

「なんだい、そんなところで」

「一応断っておくけど、アヤナ、今からニコ生で配信始めるからさ、外出てた方がいいよ。プライバシーとか個人情報がどうとか三田くんにも色々あるだろうから」アヤナは制服のスカートのポケットを探ってウェブカメラを取り出すと、その端をUSBコネクタに挿し込み、カメラをパソコンの上部に取り付けた。

「いいの? もう始めちゃうよ」とアヤナが急かすので見田はとりあえず、洗面所の外に出て扉を閉めた。彼が居間に戻ると早速、中からアヤナが誰かに話しかけている声が聞こえてきた。見田は軽く首を振ると、とりあえず寝ようと思った。彼は昼間に眠るのだった。

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