バスジャック

四流色夜空

第1話

 仄暗い橙色のベッドサイドランプの明かりが枕元で灯り、窓からはレースカーテン越しに月の光がシーツの上に青白く射し込んでいた。女はダブルベットの枕がわの壁に背中をつけて、三角座りをし、ナイトテーブルにある灰皿に煙草の先を傾けて、灰を落とした。彼女はそこにしばし視線の行く末を定め、煙草を持っていない右の手で、度重なる明るい毛染めによって痛んだ髪の上から頭を支え、茫然と時の刻むままに身を任せていたが、ふと気まぐれにように声を出し、隣で横になっている若い男に訊ねた。「ねえ、朝になって地球が滅んでいたらどうする?」

 見田は目を瞑ったまま呆れたように言った。

「地球は滅びない」

「でも、そんなこと分からないじゃない? いつなんどきなにが起こるかっているのはそんなの誰にだって分からないわ。ねえ、そうじゃない?」

「そうだね、ある意味では」彼は目の隠れるまで伸びた前髪を指先で払いながら答えた。「次の瞬間にこの簡素なホテルのドアを突き破って熊が襲ってくるかもしれない。あるいは天井が割れて大量のマジック用の鳩が落下してくるかもしれない。けれど地球は滅びない」

「ねえ、私はそんなこと言ってるんじゃないのよ」

「分かってるよ」彼が瞼を微かに持ち上げると、「でも君も家ではよくやってるわけだ。そうだね?」と言った。

「よくやってるですって?」女は心外とでも言うような顔をした。「あの人は全くよ、全然。私は家政婦みたいなものなのよ、本当に。洗濯機を回して、掃除機をかけて、空いた時間にテレビを見て、あの人が帰ってきたら夕食をつくって。ねえ、分かるかしら。どこにも行けやしないのよ、全く。本当よ。私は空っていうものを生活の中で見たことがないわ」

「まあ、そう言うなよ。僕だってね、君と彼の間をどうこう言うつもりもないんだ。僕としては彼を貶めるつもりもない」

「彼って言った?」女は顔を上げて驚いたような声を出した。「ねえ、見田くん。あなた夫と会ったことあったかしら。一度だって言葉を交わしたことがあって?」

「いや、ないね。でも、つまり僕の言わんとしてることは――」

「私はね」女は煙草を灰皿に設けられた窪みに置くと、細い指を見田の華奢な胸に這わせた。「ここでは何もかもを忘れたいのよ、日常のことを全部さっぱりとね。今は鯛のアラ煮の鱗のこととか、トイプードルの毛並みの処理のこととか、木曜はドラッグストアでシリアルが安いとか、そういうこと全部を放っておきたいの。ここは一面の闇にぽつんと浮かぶ宇宙船の一室や、放課後の図書室だと思っておきたいのよ」

「分かってるよ。そういうことを言いたいんじゃないんだ。別に君の世界を壊そうなんて思っちゃいない。ただ」見田はさきほどまでバーで飲んでいた酒が頭を濁らせているような気がして、頭をさすった。そして天井をじっと見つめた。「……いや、なんでもない」

 女はナイトテーブルに置かれたスマートフォンで知り合いからのラインの報告を確認していた。女が携帯電話を操作するたびに暗い部屋の天井には細々とした物たちの影が、迫りくる大きな敵の姿みたく大仰に騒ぎ出した。女はそれから、灰皿に置かれた煙草の火が消えていることを見やると、そばにあったシガレットケースからまた一本ピアニッシモ・フラン・メンソールを取り出して吸った。隣の見田にもそのラズベリーの香りは微かに漂ってくるのが感じられた。その煙の行く末を女はしばし見守り、スマートフォンの通知を気にするようにそちらにちらちらと視線を落とした。

「近くにコミックレンタルしてるとこなかったかしら。夜中に目が覚めたらどうしよう。このところ眠りが浅いのよ。映画でもいいけど、夜眠れないことを考えたら怖くて仕方ないわ。どうしてここにはテレビのひとつもないんだろう。ねえ、こんなことってある?」

「まあ安いホテルだからね」自らの鼓動の音を確かめるように耳を澄ませていた彼は、タオルケットを首筋まで引き上げていった。「さっきシャワー浴びた時もガタガタしてたし、そういう造りなんだろう。今度来るところは違うところにしよう」

「繁華街の中だから、交通は便利なんだけどね。でも見田くん、免許持ってなかったでしょう? あれだけ大学の間に取っておけって言ったのに」

「こう都心部に住んでいるとなかなか必要だって分からないんだ。暇を見つけるのも難しいし」

「あら、やはりああいうのは集中することが必要ね。さっきの私たちみたいに。やるべきこと、それだけに身体中の神経の焦点を合わせるのよ。生活の照準を定めるの。免許とか歯医者の通院って、そうしないとうまくいかない類のことね」

 そう言ってから女は口を噤んだ。見田も興奮の轍を味わうように心を静めて、また目を瞑る。そうすると遠くで走るバイクの走行音が窓枠を震わせ、空調が部屋の空気を掻き混ぜる様子が手に取るように分かって、それ以外のものは何ひとつとして消え失せた。彼は自分が透明で中身が空のひとつのグラスになったような気がした。注がれる水を待つひとつのグラス。それは窓際に置かれている。

「ねえ、私が今したいこと分かる?」女が思い出したように言った。

「ん?」

「私が今したいこと」女はスマートフォンの電源を落とすと、床に置かれた鞄にそれを投げ入れて、スイッチを押してランプの明かりを消した。

「いや、ごめん分かるよ。もちろん」見田はそう言うと、掛け布団に入り込んだ下着も着けていない女の背に手を回し、全体の輪郭を確かめるようにゆっくりと抱きしめた。

「朝になって地球が滅んでたらきっと素敵なのに」

 二人は再三した接吻をまたして、深い地下への階段を下りるように一歩ずつ眠りに身を落としていった。

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