短編二

サツキノジンコ

短編二

「おやすみ」

「……ああ、おやすみ」

 旦那はそう言って、いつも通り眠りに着いた。

 卓袱台を片付け押し入れから出した敷布団を二つ、畳の上に敷く。娘と三人で寝るには少し狭いが、旦那も私も娘のナツだって誰一人として不満に思ったことはなかった。

 私たちにはこの感覚が丁度いい。

 私と旦那でナツを挟んで寝る。だがそれだとナツが寝にくいので、ナツと私が同じ布団で寝て、隣に敷かれた布団で旦那が寝る。

そして毎日、旦那は自分で使う分がなくなるほどに掛布団を私たちに譲ってくれる。

 窮屈な生活で、夏は暑く冬は寒い。

 彼と出会う以前の私なら、考えることも想像することもできなかったはずだ。

 お嬢様として育てられ大学を機に家を出ても、私はこんな下等な奴らとは違うのだと驕り、常に他人を下に見ていたあの頃の私では絶対に。

 しかし今日は少し違う。

 いつもであれば、私はナツと一緒の布団で寝るのだが、今日に限っては旦那と一緒だった。私は旦那に抱き込まれて、彼の胸の中だ。

代わりにナツは一人で、いつもであれば旦那が寝ている布団で寝ている。

 この家にある唯一の時計は、私の上にある目覚まし時計だけだ。安物のソレは出自不明の貰い物で、カチカチと秒針の音が鳴り響く。

 瞼を開けば、愛する娘と惚れた旦那がすでに寝静まっていた。

 速いものだ――。

 あんなことがあったていうのに、二人はいつもと変わらない。

 きっと明日も同じように迎えるのだとおもった。

 旦那から大事な話がある――と切り出されたときは表情にこそ出さなかったが、かなりヒヤヒヤした。

 内心バックバクだった。

 頭の中を、まだ結婚していなかった頃に旦那の方から切り出された、あの話がフラッシュバックさえした。

 晩御飯の後でね――と、先延ばしにし、今忙しいから――と、娘の所為にしてまで話を拒んだが、ナツが寝て二人で布団に入ったときとうとう切り出された。

 まだそうと決まったわけじゃないのに、離婚した後の事とか、娘の親権とか、今まで無縁だったはずの事柄が頭の中を支配してしまう。

 ――イヤだ! 聞きたくない。

 そう言ってしまいたかった。

 それでも言葉を腹の中まで飲み込み、努めていつも通りの表情を作り、息を吸った。

 肺が空気以外の物で満たされている気がして、肺の空気をすべて吐き出してなお、肺には重い鉛みたいなものが溜まっている。

 なんで……?

 何がダメだったの?

 私ちゃんとなおすから。

 ダメなところがあったら教えてよ。

 私が悪かったから…………だから!

 ――何でもするから………………すてないで。

 重いんだよ――いつかの誰かの言葉が、心の空洞で反響している。

 そんな私を、旦那は見つめている。

 そんな目で――見ないで。

 ――思わず、目つぶってしまう。

 何もない真っ黒な世界に逃げる。

 頭の中を黒い感情が濁流となって――押し寄せる。感情の器はすでに限界だった。

「――いっ」

 イヤだ!――幸い、拒絶の言葉が私の口から飛び出すことはなかった。それより早く、彼が言葉を紡いだから。

「――お金が手に入ったんだ」

「え……」何が何だかわからなかったが、私は恐る恐る瞼を開いた。

「仕事で稼いだ」

 旦那はさっきと同じ目で、私を見つめている。

「大丈夫、汚いお金じゃなし、借りたわけでもない」

「あ、……うん」

 ……だから、私は必要ないのか。

 ストンと心の閂(かんぬき)が落ちた気がした。

 今度は無意識のうちに瞼を瞑ってしまっていた。

 いったいどれ程の額なのかは想像もつかない。ただ、彼が私に話すくらいに大きな額であることだけはわかった。

 ここにナツがいなければ声を上げて泣いていたかもしれない。だけど娘の前で私が泣くわけにはいかなかった。

 もう何も考えられない。

 考えたく――なかった。

 瞼を開けば無意識のうちに涙が流れ落ちる。

――ひゅっ、ふぃ、かっ。

 うまく呼吸ができない。意に反して口がパクパクと、酸素を求める魚のように動く。

 苦しくて――やっぱり苦しい。

 前だってこんなに苦しくなかったはずなのに。

 ……もう、何も見えなかった。

 濁りきった視界は、ナツさえ正しく認識できないほどに曇っている。

 耳鳴りがする。

 時間の境界線があやふやになって、ここがどこなのか、今がいつなのか、現実なのか、夢の中なのかすら、分からなくなる。

「大丈夫?」

 だからその声が娘のモノか、それとも旦那のモノか――わからなかった。

 気が付くと、私の手を握っている誰かがいた。

 ナツを見れば心配そうな瞳で、こちら覗いている。

「……え? ああ、うん。大丈夫。……お母さん、ちょっと怖い夢見ちゃった」

 必死に笑顔を作ろうとするけど、鏡を見るまでもなく酷いものだとわかった。

 ナツの奥で寝転がっていたはずの旦那の姿は――もうない。

 捨てられたんだと思うと――わかっていたけど、寂しかった。

 金ずるでもいいと思っていたはずなのに……。

 そんな後悔が滲み出てくるのが分かった。

「お父さん、お母さんしんどそう……」

 娘は眠たそうな瞳で、今はいない父の名前を呼んだ。

 なんで私は止めなかったんだろう……。

娘を理由にしてでも止めるべきだったのに。

ああ、なんで……。

何がいけなかったのか。

娘の前だというのに、全てを吐き出してしまいたいという衝動に駆られる。

「……ごめんね。お父さんは――」

 いないの。いなくなっちゃったの。その言葉だけが、出ない。

「……お母さん?」

 娘が心配そうに、私をのぞき込んでいるのが分かった。

 ……ああ、なんてダメな母親なんだろう。こんな思い、させたくないのに。

「――おい! しっかりしろよ!」

 それは確かに彼の声だったが、幻聴にしか聞こえなかった。

「ユキ、おいユキってば!」

 必死に私を呼ぶ声がして、私は振りかえ――れなかった。

 大きな何かにぶつかって、体がうまく回転しない。

「…………え?」

「あーよかった……。急に涙なんか流し始めた時にはビックリしたぞ」

 そこにはいなくなったはずの彼がいた。

「……アキくん?」

「ああ」

「本当に?」

「ああ」

「……よかった、よかったよ。ちゃんとアキくんの匂いがする」

「……どうしたんだよ? 何か嫌な事でもあったか?」

 そう言って彼は私をやさしく抱きしめてくれた。

 静かに、優しく。でも離れられない程しっかりと。

「お父さん、お母さんだいじょうぶ?」

「ああ、ちょっと怖い夢見ちゃっただけだって。心配するな、今日はお父さんのお布団でおねんねしような」

「うん……」

 お母さんはだいじょうぶだよ――ナツは瞼を閉じる前私に一言そう言って、再び深い眠りについた。

「わたし……ナツにまで心配させちゃった。……お母さんなのに」

「……うん」

 彼は私を正面から胸に抱え込むように抱いて、普段ナツをナデナデする時のように、私の頭を撫でる。

 普段であれば絶対に怒るが、今だけは凄く安心できて……できるならずっとして欲しかった。

 何時からそうしていたのだろうか、彼の寝間着には私の涙と鼻水が、ふんだんにこびりついていた。

「………………」

 彼は何も言わなかったが、温かい目線と朗らかな笑顔が、私が落ち着くのを待っていることを物語っていた。

「……おかね」

 やがて私は語りだす。

「……おかねってなに?」

 彼はいくら稼いだとか、いつ入って来るのかとか、だから君はもう無理して働く必要ないとか、そんなことばかり話した。

 ――その金額を聞いたとき、私は驚きを隠せなかったはずだ。

 一生遊んで暮らせることはできなくとも、あと十年は何不自由なく生活できるであろう金額だった。

「――じゃなくて、どうやって? ……危ないこと、してないよね?」

 正直、今までまともに働いてこなかった彼がいきなり稼げる額ではない。

「何をして稼いだかは……ごめん、言えない。でも、危ない職ではないし、強盗とか詐欺とかじゃない。真っ当な職業だよ。……生活は今までと変わらず、ずっと家にいるだろうけど」

 いつか――俺にその覚悟ができたら、仕事の内容を教える。だからその時まで待てて欲しい。

「……うん。じゃあ、どこかに行ったりしないよね? 私たちを置いて、遠くに行ったりしないよね?」

ああ、当たり前だ。逆に近くにいすぎて邪魔なくらいかもしれない。彼は笑いながらそう言った。

……私からすれば笑い事ではないのに。

「……何か直してほしいことがあったら言ってね。わたし、頑張るから。捨てちゃ、やだよ」

「俺がお前に捨てられる時が来たとしても、俺がお前を捨てる時は絶対に来ないよ」

「……私だって、すてないもん」

 すべて納得したわけじゃない。

 でも今日のところは、これぐらいにして寝てしまおう。

 旦那の腕のなかで寝るのも、久しぶりだ。

「おやすみ」

「……ああ、おやすみ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

短編二 サツキノジンコ @satukino

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ