逃げ

 マリエッタを見逃す選択肢はあった。

 彼女は潜在能力を秘めている。下手に刺激をすると危険だ。今が最大のパワーだとも思えない。

 それはそれで都合がよかった。彼にとって負けは損にならない。なにしろ暴れさせることが目的なのだから。

 第一に傲慢は腐っても御使いだ。地上で大きな騒ぎが起これば、必ず動く。騒ぎを起こすにはモンスターを暴れさせる方法が、手っ取り早い。

 ルイには見えていた、嫉妬を冠する女を覚醒させるルートが。

 しかし、それは寝ている海獣を叩き起こすような行為である。そばにいる者はただでは済まない。真っ先に食われる。つまり犠牲が必要だ。

 その役は自分が行う。グラジオラスに属する者としての責務は、果たさなければならない。





 人気ひとけのない市街地の外れ。サンダルのペタペタとした足音が発生しては、消えてゆく。

 静かな場所だ。元は人は住んでいたけれど、今は空き家ばかりが目立つ。

 ある日、近くにダンジョンが出現してからというもの、住民が逃げ、誰も寄り付かなくなったようだ。

 沈む夕日も相まってもの悲しさが加速する。そこへさらりと吹き抜ける涼やかな風。白いワンピースがふわりと揺らぐ。


 マリエッタ・ローレライはちょうどダンジョンに挑んできたところだった。手にはトライデント、左手には無。カバンすら持っていない。

 と、不意に彼女は足を止めた。

 坂の上に派手なつなぎを着た男が立っている。格好は同じ。違うのは雰囲気だ。青みを帯びた白い肌は茜に染まり、ダークブルーの瞳からは鋭い光がほとばしる。闇色のダガーを隠しもせずに握り込む姿はこちらに殺気を向けているかのようだった。


 二人は向き合い、地面に濃く長い影が伸びる。

 マリアが平然と突っ立っている中、ルイは硬い表情をしていた。


「どこまで逃げるつもりだ?」

「……なんの話よ?」


 少女はしれっと返す。


「お前は人類の敵だ。分かってんだろ? 俺だけじゃない、フラン・マースリンも知ってることだ。それでもお前はそこに留まるのか? 許されると、思っているのか?」

「当たり前じゃない。あたしは世界を滅ぼす気がないのよ。あいつらの目的は知らないけど、協力する気がないわ。だって嫌いな奴が多いんだもの」


 ハッキリとした意思を口に出す。


「あたしはここにいたいの。そうでないと彼に認められないから」


 断固とした口調。おのれを悪と思っていない態度。

 ルイはあきれて重たい息を吐く。

 それから彼は目線を上げた。夜の闇に似たダークブルーの瞳が、彼女をとらえる。


「気に入らねぇな」


 冷めた声だった。


「嫌いだ、悪としてな」


 敵意の滲んだ言葉にマリアは怯んだ。

 それだけではない。

 嫌い。

 小さな言葉がガラスの破片のように胸に刺さり、なぜかショックを受けている。

 相手は敵だ。くだらない相手でしかない。分かっているのに、彼に否定されただけで自分という存在が、根底から突き崩されたような感覚になる。

 もしかしたら分かり合えるかもしれないと、淡い希望を抱いてしまったのだ。


「俺らのリーダーとは真逆だな」


 独り言のようにこぼし。


「いい加減にしろよ。無駄なんだよ。終わっちまってんだよ。嫉妬を冠してる時点でお前は誰の隣にも立てねぇ。表の世界で生きる資格もねぇんだよ。それを知っていながらなにを甘えてやがる。許された気になってるんだ?」

「黙って」


 彼の指摘は正しいと分かっている。

 ダメージになっているのがその証だ。

 だけど、もう聞きたくはない。

 嫌なのだ。受け入れたくないのだ。

 反発せずにはいられない。

 目を見開き、血走った眼球で睨みつけ、勢いに任せて、怒鳴った。


「たかが悪党がなにを偉そうに!」

「お前もその悪党だろうが!」


 間髪を入れずにルイも言い返す。クリアな響きは迫真じみていた。

 たちまちマリアは口を閉じ、引っ込む。

 場が静まり返り大声による反響だけが広がった。


 ややあってルイは切り出す。


「たとえどれほど人間味のあふれる内面をしていても、その甘ったれた姿勢は見逃せねぇ」


 ダークブルーの瞳から青白い光を放つ。冷たいほどに覚悟の決まった目だった。


「この俺が引導を渡す」


 静かに告げると、彼はすっと腕を上げ、ダガーを構えた。闇色の切っ先が少女へ向く。

 マリアの身がすくんだ。

 絶望と一緒に息を吸い込む。


 殺される。


 戦わなければ死ぬ。生き残るためには戦わねばならない。

 反射的に魔力を放出。

 刹那、髪を留めていたバレッタが砕け散る。落ちていく。ポロポロと破片が。


「あ……」


 気の抜けた声が漏れる。

 少女は目を大きく見開いたまま、固まった。

 ほどけた髪がばらりと背中に広がる。黒かった髪がじんわりと縹に染まっていく。その様は透明な水に一滴の絵の具を投下するところに似ていた。

 途端に相手のつけている探知機が反応する。リングについた水晶は海色の光を帯び、チカチカと点滅していた。


「正体を顕したな」


 分かりきった答えをつむぐように、ルイは言う。


 やって、しまった。

 絶望感が心を包む。


「ああああ!」


 頭を抱え、叫ぶ。

 どうすればよいか分からない。

 いかなる手段を用いれば身を守れるのか、生き残れるのか。

 分からない分からない。

 助けて。


 パニックに陥りながらも、彼女は決してうずくまりはしなかった。


 色を失った顔で彼方を向いたかと思うと、いきなり地を蹴る。

 ほとんど本能のままに走り出した。

 通路を抜けて、ここよりさらに人気のない方へ。

 ピンクのサンダルは廃校へ向かっていた。

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