想いと別れ

 ルイは真剣な顔で窓の外を見つめる。

 グレーの雲が散らばった夜空。暗く溶けた空気感。海の底にいる気分だった。


 彼が悩んでいるのはマリエッタについて。

 最初は嫌味な存在としか思わなかった。強い力を隠している癖になにを白々しく弱者を演じているのだと。相対するたびにイライラしていたことを、覚えている。

 だが実際に接してみると印象が変わった。彼女は普通の少女であり、敵対するには忍びない。分かり合い、友好関係を築く可能性もあった。


 淡い思いはまたたく間に霧散する。

 マリエッタとは敵同士。ルイはそちらになびかない。所詮は叶うはずのない想いなのだ。


 同時に思う。

 解せない。


 フラン・マースリン。濃い赤髪に色黒の肌をした、貴族の青年。脳内に彼の顔が浮かび、灯火のように揺らいでいる。


 彼は感謝の対抗者、嫉妬にとっての敵だ。

 立ち位置は同じであるにも関わらず、彼だけがマリエッタと心を通わせ、なあなあの関係を続けている。

 彼はおのれの役割を放棄していた。

 ごまかし続けても二人の関係は破綻する。取り返しのつかないことになる前に、引導を渡すべきなのに。否、彼が手を出さないからこそ最悪の事態を防げているのか。


 どちらでもいい。

 マリエッタに関してもそうだ。

 彼女はおのれの立場を分かっていない。大罪とは世界を破滅に導く存在でありそこに属するとはすなわち、世界を敵に回すも同義だ。

 悪を貫くのならまだしも、中途半端な位置に留まるとは、甘いにもほどがある。

 あまつさえ普通の人間であろうとして、日の当たる道を歩もうとしているとは――


 思えば思うほどに不満がこみ上げてくる。

 心は渇き嵐のようにかき乱されていた。

 ああ、やはり、彼女のあり方だけは肯定できない。


 ゆえに彼の意思は決まった。

 自信も勇気も要らない。ただこれだけは成し遂げたかった。

 顔を上げて、前を向く。窓ガラス越しに映った空に雲はなく、濃紺に澄み渡っていた。


 ***


 まだ昼の時間、ルイは家主に向かって別れを告げる。


「辞めさせてもらいます」

「今、なんて言ったの?」


 ヒルダがソファの上から視線を送る。


「これであなたとの関係はなくなりますと、言ったんです」


 彼が律儀に答える。

 聞き間違いではないと分かり、ヒルダの顔から表情が消えた。

 唇を引き結び、静かな気迫をまとったまま、立ち上がる。ガタッと音が鳴った。


「なに考えてんの、あんた」


 低い声で問う。


「そんな要求、通用すると思ったの? あんたは一生、あたしのものよ。解放なんてしてあげないんだから」


 女は目と眉をつり上げ、怒りをあらわにする。

 拳は固く握られ今にも殴り掛かりそうな空気だった。


「それはどうだろう」


 ルイは苦笑いを口元に貼り付け、さらりとかわす。


「俺を舐めないでください」


 かと思うと急に強い口調で言い放ち、彼女を見据えた。確かな意思のこもった目が凄みを放つ。

 空気がピンと張り詰めたものに変わった。静まり返った室内。窓の外では空が陰り、薄暗い。二人の顔に影が下りた。


 ヒルダはすっかり怯んでいる。

 数秒、口を開けたまま固まっていた。

 彼女は一度唇を引き結び、深く息を吸い込んで。


「なんであんたはその道を選ぶのよ?」


 声を張り上げ、食らいつくように問いかける。


「理由なんていらない。ただ俺がそうしたいだけです」


 あっさりと彼は答えた。


「強いていうなら、あなたよりも純粋に想えて、だからこそ許せない。そんな女がいるから」


 ハッキリとした口調。

 袖にするような物言い。

 ヒルダは不満げに、彼を睨んだ。


「いつも誰かに従ってばかりいるあんたが、一丁前に言うじゃないの。一人でもがいたところでなにもできない癖に」


 力のこもった言葉に棘が交じる。


「あんたにはあたしが必要だわ。あたしだけがあんたの価値を引き上げられる。常にあんたを引き止めてそばに繋ぎ止めていたのは、あたしなのよ」


 愛か憎しみか。

 強い感情が執着となって膨れ上がる。


 対して青年は視線を下へ向けた。


「あなたを真の主と認めたことはありません。本当の居場所はここじゃないんですから」


 淡々と事実を口に出す。


「あなたは俺の過去を知らないはずです。俺の過去なんて、あの泥にまみれた記憶なんて、誰にも言いませんよ」


 苦々しい顔つき。

 自身の過去を思い出すように、遠くを見つめて。

 それから視線を前に戻し、宣言する。


「俺はもう誰にも支配されたくありません」


 それは明確な引導だった。


 たちまち女は目を見張る。まるっきり放心状態。顔からは色が抜け。強気の仮面がガタガタと崩れる音がした。


「どうしてよ?」


 震える声で問いを投げる。


「あんたはあたしを助けにきたじゃない。あたしのために火山にまで行って」


 引き止めるように、すがりつくように。

 身を乗り出し、髪を揺らす。

 ルイは口を開かなかった。

 目を伏せ、曖昧な表情を見せるだけ。


 薄暗い部屋にひんやりとした空気が垂れ込んだ。


 女はただ息を呑む。

 焦りか諦めか。

 瞳が揺れる。


 彼女は結局なにも言い出せず、力を抜いたまま、突っ立ってしまった。


「俺にはあなたが必要だった。しかしあなたに俺は必要ない」


 柔らかな声が鼓膜を揺らす。

 次に青年は眉を曲げて、寂しげに笑った。


「さよなら。二度と会うことはないでしょう」


 澄んだ声で別れを告げる。


 彼はあっさりと彼女に背を向けると戸を開けて、廊下へ足を滑らす。

 ヒルダはなにか言いたげな目をして口を開くも、すぐに閉ざした。

 そのときにはすでに彼の影はなく。

 空いた扉。長方形の空白から目をそらす。


 彼女はなにもなくなった部屋に、ぼうぜんと突っ立っていた。

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