覚醒
入り口から中に入るとそこは暗闇だった。明かりがついていないせいで、不気味な気配が漂っている。まるでアンデッドの出るダンジョンに迷い込んだ気分だ。少し戸惑うが足を止めるわけにはいかず、廊下を駆ける。ピンクのサンダルがフローリングを蹴る度に軋んだ音が鳴った。
手前にはドアがある。板ごとひったくる勢いで開いて、教室に入った。即、机の下へ潜って、小さくなる。
どうか見逃して。自分を隠してほしい。
少女はビクビクと震えながら、頭を抱える。
しかし、彼女の切実な祈りは天には通じなかった。
耳をかすめたのは、硬いものと接触したようなざらついた音。
一秒ほどの空白。
次の瞬間。
耳を突き破るような派手な音と共に、壁に大きな穴が空いた。
教室が揺れる。
飛び散った破片が床に落ちていった。
少女は頭から両手を離して、顔を上げる。
揺らぐ瞳。陰った青が廊下に立つ影を映す。
見つかった。迫ってくる。
刃の輝きが視界をちらついた。
色は見えないが軌跡は分かる。
たちまち心臓が凍りつくような感覚が走った。
すぐさま机から這い出て、廊下へ飛び出す。
そこは月明かりが通っていて、薄明るい。
「我が告げる。木は海なり。古き板の羅列は碧く染まる。躍動せよ」
窓へ手を伸ばし、口を動かす。
詠唱を終えると触れた箇所が碧く染まった。表面が波立ち、水が滝のように吹き出す。これより壁は海と判定。潜れば逃げられる。
しかし、敵は彼女の脱出を逃さなかった。
「冥府の地より闇を呼び出す。漆黒よ天を染めろ」
低く鋭い声が耳に届いたとき、海は黒く染まる。
フィールドが塗り替えられ、ダンビングができなくなった。
敵に追いつかれた今、何度脱出を試みたところで、防がれるだけだろう。
手を引っ込めて敵とは別の方を向く。足を踏み出そうとした。
直後に目の前に黒い壁が立ちはだかる。それは空間に生じた孔のようだった。ブラックホールのように黒く、光を通さない。実体を感じないのに確かに異物として存在している。
マリアはピンと足を止めた。
「逃げられねぇよ」
ドスの利いた声が耳に届いて、青ざめた顔で振り返る。
「どの道、生きるか死ぬかしかねぇんだ。仕掛けてこいよ」
挑発を受けて唇を噛む。本音を言えば逃げたいが、戦わなければ生き残れない。
覚悟を決めて、相手へ顔を向ける。
硬く握り込んだ右手を解くと、一瞬だけ武器が宙に浮いた。トライデント。回収するなりふたたび手を握り込む。
武器をビシッと構え、両者は向き合う。
戦いが始まった。
「私怨を黒く、塗りつける。我は祟り、呪う者。汝は悔い、償う者」
先に動いたのはマリアのほうだった。
「影は音もなく忍び寄り、汚れた人形を葬る。さあ、享受せよ。贖いを」
呪術を発動。
ルイもダガーを構え、闇色の切っ先を彼女へ向ける。
放たれた漆黒が呪いとぶつかり合う。
やがて二つの黒は無に帰した。
一瞬で決めれば間に合うかと思ったが、さすがに相手も対応が早い。
水の属性を使うしかないと踏んだとき、少女の耳に詠唱が響く。
「我は今はなき冥府を統べる者。咎人を地獄へ誘わん。地はとうになき。視界を黒く閉ざしながら堕ちてゆけ。無限の闇をさまよえ」
そして、周りの景色は一変した。
視界が黒く染まり、足元に穴が空く。マリアは奈落へ落ちた。底はなくなにも見えない。
眼前には闇が迫る。
ぞわっとした感覚が肌を撫で、冷気を浴びたように血の気が引いた。鼓動が加速。
嫌だ。
死にたくない。
誰か助けて。
心の中で助けを求める。
無情にも体は落ちていった。下では地獄の門が待ち構え、もがく彼女に「これがお前の罰だ」と突きつける。大鎌を持った死の化身は背後に忍び寄り、首に鎌を近づけた。
「あ、ああ……」
視界がぐるぐると渦を巻く。
激情に駆られ、叫んだ。
「やめてえええ! お願いっ!」
ぎゅっと目をつぶったまま、勢いのまま首を曲げ、闇に消えた天井を見上げた。
瞬間、悲鳴は消え。
彼女の表情は無と化した。
ドクン。
心臓が波打つ。
全身を熱い血が巡る。
見開かれた目は、瞬きすらせず。瞳が碧色に染まった。
刹那、暴風が発生。
縹色の髪が風に揺らぐ。
「おいおい」
男が瞠目する一方で暴風は龍と化し、宙を昇る。それは一瞬で黒い天井をえぐり取ると、淀んだ空気を切り裂いていった。
「とんだ詐欺だな」
顔をしかめながらダガーを女に向ける。
迷いはなかった。
そのとき眼球がギロリと動く。碧色の瞳が男をとらえた。目が合う。たったそれだけで、心臓を鷲掴みにされたような衝撃を、直で受けた。
つづいて青い衝撃派が放たれ、彼を襲う。
ルイは強張った体を強引に動かし、退いた。
体勢を整えようとした矢先に、眼前を青が通過。
ルイは自身の手元へ目を向け、息を呑む。ダガーの刃をえぐり取られている。
いよいよ彼は自覚した。おのれは開けてはならない蓋を開けてしまったのだと。
ルイは虚脱感に苛まれ、突っ立ってしまった。
彼がぼうぜんとしている間にもフィールドは、海色に塗り替えられる。足元は一面の水浸し。
天井は割れ、裂けた。空いた隙間から雨が降り注ぐ。大粒の雫は槍と化して、廃校を襲った。
知らぬ間に空が赤く染まり、雲が竜巻のように渦を巻いていた。
風が吹きすさぶ。
遠い潮騒。
鳴り響く雷鳴。
建物が崩れていく。
その中心で、女はウェーブのかかった髪を揺らめかしながら、まっすぐに立っていた。
嵐の化身。まさに天災。人の手には余る。
「はは……」
苦笑いが零れる。そう、彼は笑っていた。
「目的は果たしたぞ」
青い魔力を浴びて廃校が崩れる。
壁もガラスも粉々になった。むなしい思い出のように。
ルイは運命を受け入れた。
揺れる建物、降り注ぐ破片の真横で、男の唇は弧を描く。
彼の姿は瓦礫の中へ消えた。
***
全壊した建物。瓦礫の埋もれた空間の中でマリアはただ一人、無事だった。
少女の顔から色が消え、瞳は縮小。ゆっくりと手元を見ると、鱗が視界に飛び込む。手首から腕、腕から二の腕にかけて。全身を覆いそうな勢いだった。
これでもまだ、人だと言えるのか?
自問自答。
一線を越えた感覚があった。怪物に成り果てたという事実を受け入れられない。幻だと思いたかった。
なにかにすがるように手を伸ばす。指を広げようとしたとき、青いオーラが宙に漂った。放たれた水が渦を巻く。
視界に映ったのはワンセットの机と椅子。生き残りだ。されど無情にも波に飲まれて、押し流される。宙に巻き上げられスクラップにされると、あっけなく落下。竜巻に巻き込まれたような有様だった。
「ああ、ああ……」
頭を抱えてうずくまった。
揺らぐ感情に呼応するように力は増幅し、強さを増す。抑えきれない。
風と共に膨らんだ水の渦は道路の反対側にまで届き、民家の群れを飲み込み、破壊した。
凪いだときにはもう遅い。
バラバラになった廃墟、更地になった大地に、少女は立ち尽くす。
海の色に染まった瞳は光すら映さない。
彼女は悟った。この力は自分には操れない。人の手に余る代物だったと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます