海からの手紙
紺道ぴかこ
海からの手紙
「ねえ、起きてよ。あきら」
聞き慣れた彼女の声がして、目を開ける。青々とした空間が広がる中、彼女ーー波音は、わたしの前で微笑んだ。
「あ、やっと起きた」
やっと、なんて言われるほど眠っていたのだろうか。ここに至るまでの経緯を思い出そうとしたのも束の間、違和感に気がつく。
あたり一面真っ青で、上の方からかろうじて光が差し込んでいる広い空間。はじめて目にする光景のここは、いったいどこなのか。
「ここは?」
尋ねると、彼女は「見ればわかるでしょ」とさも当然のように答えた。
「海の中よ」
そうか、海の中か。あまりにも平然としているので一瞬納得してしまってしまったが、そんなことはありえない。
「そんなバカな」
波音が眉を寄せる。否定されたことへの怒りでも悲しみでもなく、あきれた様子であった。
「驚かなくてもいいじゃない。海だって地球上にあるんだから、私たちが来れても不思議じゃないわよ」
いやいや海の中だよ? 呼吸できないよ? わたしが反論する間もなく、「そんなことより」と波音が言葉を続けた。
「せっかくの機会なんだし、いろいろ見ていこうよ!」
どうやら、なぜわたしたちが海の中にいるのか、そもそもここは本当に海の中なのか、海の中だとしてなぜ息ができるのかなど、もろもろの疑問に答える気はないようだ。
目の前を、魚が泳いでいく。それをきらきらした目で追いかける波音を見たら、わたしもなぜここにいるのかなんて気にならなくなってしまった。最近塞ぎこんでいた彼女の笑顔を見られたことが、空間への不信感を上回った。
「みてみて、魚がいっぱいいるよ!」
「うん、綺麗だね」
「水族館によく行ったりしてたけど、こんなに間近で見るのは初めてだよ」
波音は海が好きだった。わたしも一緒に海辺へ散歩に出掛けたり、水族館によく行ったりした。わたし自身は海や魚に対して興味があるわけではなかったが、先ほどのように目を輝かせる波音たちの姿を見るのは楽しかった。
「……?」
ふと、違和感を覚える。わたしはなぜ、波音「たち」と思ったのだろう。浜辺の散歩も水族館へ行くのも、わたしと波音、二人でした行動ではないのか?
「海の中って神秘的っていうか、この世のものとは思えないものを感じるよね」
わたしの思考は、波音の声でかき消される。さっきのはきっと、ただの思い違いだ。そういうことにしておく。
「もともと海は好きだったけど、もっと好きになっちゃった」
弾んでいた彼女の声が、少し低くなる。
「弟も、連れてこれればよかったんだけど……」
「弟……海斗くんだっけ?」
「あきらは会ったことあるんだっけ?」
海斗くん。すんなりと名前を出せたのだから知り合いのはずなのだが、彼の姿が思い出せない。波音に話を聞いていたから、名前だけ知っていたのだろうか。
「たぶん、ないと思う」
「そっか。泳ぐのがすっごく上手なんだ。夏場はよく海水浴につき合わされてたよ」
「ふーん。今度会わせてよ」
波音の表情が固まった。……なにか、おかしなことを言っただろうか。不自然な質問ではなかったと思うのだが、なぜか胸が騒いだ。言い様のない不安に襲われる。
こめかみを、冷や汗が伝う。ああ、なんだか落ち着かなくなってきた。深く呼吸をしてみるが、青い空間の中では新鮮な空気を吸えた気になれなかった。
「ねえ、戻ろうよ」
だからだろうか、そんな言葉が口をついて出た。どこに戻るのか、そろそろ戻れるのかすら危ういが、心の片隅に「戻れる」という確信があった。
波音は目を大きく見開いたかと思うと、次の瞬間には眉間に皺を寄せていた。
「……私は、帰りたくないな」
「どうして?」
波音がきゅっと唇を引き結ぶ。わたしから視線をそらして、「帰るなら、あきら一人で帰って」とぶっきらぼうに告げた。
波音は子供っぽいところがある。きっとまだ遊びたいのに、「戻ろう」なんて言われたからつむじを曲げたのだろう。とはいえ、夜になれば子供は家に帰るもの。時間が経てば、彼女も帰る気になるだろう。
「それじゃ、先に行ってるよ。また後で」
踵を返そうとしたわたしを、「待って」と波音が呼び止める。
「これ、持っていって」
波音の手には、白い封筒が握られていた。
「これは?」
「戻ってから、読んで」
戸惑うわたしに半ば強引に手紙を押しつけて、「戻ってからだからね、絶対よ」とだめ押しのように言う。
「わかったよ。またね」
彼女に背を向け、歩き出す。どこへ行けばいいのかなんてわからないのに、行き先がインプットされているのか体が勝手に動いた。
背中から小さく、「さよなら」が聞こえた。振り向かずに手を振って、前へと踏み出す。
どこまでも青い世界を、ゆっくりと進む。冷たい静けさが、肌に痛い。
真っ青に塗りつぶされた視界の端で、白いものが揺らめいた。クラゲが一匹、ふよふよと漂っていた。立ち止まって眺めていると、ゆっくり、ゆっくりとクラゲが近づいてくる。
そういえばクラゲって毒持ってなかったっけ。近づかれると危ないかな。思考は警鐘を鳴らしているのに、心は不思議と凪いでいた。このクラゲだけは、他と違うもののように思えた。
目の前までやってきたクラゲが、白い足をわたしに伸ばす。クラゲの足がわたしの右手に触れた途端、意識が真っ白に塗りつぶされた。
白いカーテンがひらひらと揺らめいている。さっきまでの青一面とうって変わって、わたしは白い空間にいた。
「あきら! よかった、目が覚めたのね」
そばにいたのは、母だった。母の目尻に浮かぶ涙をまじまじと見つめる。どうして泣いているのだろう。
「あなたが海に落ちたって聞いて、お母さん心臓が止まるかと思ったわ……。でも、無事でよかった」
ああそうか、わたしは海に落ちたんだ。海辺を散歩しているときに彼女を見つけて、声をかけようとしたら彼女はーー。
ーー彼女は?
「波音は?」
彼女の名前を口にした途端、母の頬がひきつる。それだけで、充分な答えになっている気がした。
「……そうだ。あなたが目を覚ましたこと、お医者さんに伝えてこなきゃ。まだ体を動かすの、つらいでしょう? ゆっくり休んでいてね」
どう答えればいいのか、わからなかったのだろう。母が逃げるように部屋を後にする。血の気の引いていく感覚が、じわりと体を侵食していく。
体をよじると、紙の擦れる音がした。右手に手紙を握りしめている。彼女が「帰ったら読んで」と渡してきた手紙。震える手で封を切る。
そこになにが書かれているのかーー大方の予想はついている。でも、それが外れてほしいと、心の底から願った。
書きなぐるような文字を、一つずつ確かめながら読む。
弟は私のせいで死にました。
みんなあれは事故だったというけれど、私が目を離さなければ弟は死にませんでした。私が殺したのも同然です。
謝って許されることではないとわかっています。だから、私も弟の死んだ海で命を絶ちます。
海の底でひとりぼっちになっている弟が寂しくないように、ずっと彼のそばにいます。それが、私ができるあの子への贖罪です。
さよなら。
「波音」
手紙の締めくくりの文字を声に出して、改めて彼女の書いたものであることを実感する。紙の上に、雫がぽたぽたと落ちた。
わたしは彼女を助けられなかった。彼女が海に身を投げたとき、青い空間で話しているとき、別れ際ーー引き止めるタイミングは、いくつもあったのに。
手に力が入らなくなって、手紙を握っていられなくなる。わたしが寝かされていたベッドの上に、手紙がはらりと落ちた。中途半端に翻った手紙の裏にも、文字が書かれているのが見える。もう一度手に取って、視線を落とした。
巻き込んでしまってごめんなさい。
姉は僕が連れていきます。
さよなら。
たった三行の、短い手紙。それが、せめてもの救いだった。
海からの手紙 紺道ぴかこ @pikako1107
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