@o00o

第1話

 

 寒くて嫌な普通の日。


 冬になるとアパートの一階はひどく寒い。どれだけエアコンを働かせても熱は留まることなく上に行き、うすい壁や床を伝い二階の部屋を暖めるだけ。エアコンに心があったならさぞかし無力に思えるだろう。「そうだろう?」きっと、そうに違いない。


ローテーブルに置いたカセットコンロで鍋焼きうどんを作るのが日課に近い。手をかざして蒸気で暖を取るのだが、これには弊害があって、部屋がダシの匂いになることと手を退けた時に余計に冷たく感じることだった。

じわっと手が湿って、どけるとひやりと冷える。それからずっと冷たくて寝る時までそのまま。だから嫌なのだけれど、あまりにも寒い。


 冷たい指先を丸めて鍋焼きうどんの完成まで耐える間に犬は生まれた。

母犬はいなくて、ただ、ぼんやりとした犬。

暖かくて可愛くて、少し手間がかかるが愛おしい存在だ。たまに忘れていると拗ねたようないじらしい態度をとる。でも大抵はそばにいるのだ。


 犬はもちろん散歩にも連れて行く。通勤の時か、土曜日か日曜日の朝。その時間は大変愛おしく、犬が生まれる前からは想像できないほどに楽しいもの。

お利口さんにリードを引っ張ることなく足の横をぴったり、まっすぐ歩く。一見歩いているだけなのだが、よく見れば何かに鼻をスンと鳴らしたり、少しだけ早く歩いたり、こっちを見てまるで笑うように口を開けて舌を出す。


 犬を飼うまでは犬が笑うという現象は飼い主の親バカと思っていたが、犬は実際笑った。歯を見せて舌を出して、上目遣いで笑った。

 吠えない静かな犬だったのでオフィスの足元にも連れてきたりした。とても良い子で誰にもばれなかったし、足元が暖かいので冬の間は毎日のように連れてきた。

足元に可愛い犬がいるだけで、仕事中イライラすることはなくなり仕事も楽しくなった。残業も嫌ではなくなり、たまに足元を覗けばたちまち元気になれた。


 目が悪くなった。犬がかすれて、見えなくなったのだ。焦ってゴシゴシと目を擦ると不思議そうに少し離れたところからこっちを見る犬がいた。「はぁ」とため息が出てしまう。寝起きでぼやけていただけで不安になりすぎたと、気にしないことにした。それから何回か犬がかすれる事があったが、暖かい日などが多く、どこかで遊んでいたり、日向ぼっこをしていると思った。


 犬は元気だが、爪切りのため定期的に動物病院に通っている。散歩をよくするから大丈夫だと思っていたが初めて行った時獣医さんが「爪が伸びるから、切らないとね」と言うので爪をよくみると確かに伸びている気がした。

「切り方を教えてもらえますか?」何度も通うのは面倒だったのでそう聞くと「難しいから、通うと良いよ。病院嫌がらないみたいだし。可愛い子だね」と通院を勧められた。犬は嫌がってないみたいで、むしろ楽しそうだったので、月に一度行くことにした。

「散歩はどのくらいしてる?」

「仕事中はどうしてるの?」

獣医さんは30代ぐらいの男の先生で、一見堅そうで話しにくそうに見えたが話はいつも盛り上がる。

月を重ねるたびに鍋焼きうどんばかり食べている話や、一階が寒いということ、通勤にいつも同じ車両の人が嫌ということ、だんだん自分の話になった。月に一度しか話さなくても獣医さんは話をよく覚えていてくれた。

「今日は仕事だったの?」

「はい。今日は早く終わって、電車で少し買い物に行きました」

「何を買ったの?」

「先生に鍋焼きうどんばかりはよく無いって言われたので、何か作ろうかと思ったのですが思い浮かばなくて、とりあえずお茶とか、お菓子を買いました」

「そっか。じゃあ、簡単な料理を調べよう」

先生はスマートフォンを使って、簡単そうな野菜炒めを教えてくれた。レシピをコピーしてくれた。

ご飯はレトルトのものでいいよと、コピーしたものの裏に、さとうのごはん、味付け肉、ミックス野菜、と書いてくれる。

「できたら、来月に教えてね」

「わかりました。先生、ありがとうございました」


 鍋焼きうどんから野菜炒めに代わり、その次の月には味噌汁が加わるころには春になっていた。

蒸気で手をあたためなくなると、いつのまにか犬は見なくなった。可愛くて、お利口さんで、寒い冬の心の拠り所のような存在は、春になると雪が溶けるように消えた。


 「先生は獣医さんじゃないんですね」

「そうですね。嘘をついて申し訳なかった」

先生の椅子、患者の椅子、先生の机、その他にはほとんど何もない。

先生は30代後半、もしかしたら40代かもしれない。犬を連れ、冬が何周回ったか定かではないが、自分にだけ寒い季節が永遠のように続いたのはよく覚えている。


 思えば犬に名前はなかった。頭の中の犬とはいえ名前くらいやっても良かったのになぜ付けなかったかは思い出せない。呼ぶまでもなく隣にいたからかもしれない。都合のいい、暖かく可愛い、お利口さんな犬。


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