第21話 「ウサユキ」

「一樹先輩もビニール傘なんだ。お揃いですね」


「……」


「そういう無味乾燥とした思い入れの沸かないようなもの、昔っから好きでしたよね。ノートはキャンパス、消しゴムはモノ。シャーペンは……何でしたっけ」


「フリクション」


 もう無視することも不可能だと思い、僕はゆっくり息を吐いてから、身体を彼女の方に向けた。


「ずいぶんらしくない傘を使ってるんだね」


 彼女の掲げるビニール傘を指さした。『壊れにくい60センチ』と柄の部分にラベルが貼られている。彼女の容姿や持ち物からするとあまりにも華の無いアイテムだ。


 すると宇佐雪子は、どやっと自慢げに口角に力を入れ、


「うふふ。だってこれ、傘立てから適当に引っこ抜いて来たやつですもん」


 と笑って見せた。

 彼女は長いまつ毛が影を差す切れ長の瞳を、引き伸ばすようにして細めて笑う。初めてこの笑顔を見た時、危ないな、と感じたことを今でも覚えている。気を付けないと惚れてしまうだろう、多分これが恋愛感情なのだろう、と。


 結果として僕は彼女に惚れることはなかったし、どころか恋というものが余計分からなくなってしまったのだけれど。


 僕は童貞だし宇佐雪子は綺麗な見た目をしているけれど、僕のその時の感情をただそれだけの理由で片付けるのは、あまりにも乱暴だと云わざるを得ない。

 宇佐雪子という人間は、魅力的なのだ――その容姿も悪辣な性格も関係なく、人の意識を引き寄せる。


 

 その理由は、きっとこれだ。


「……その持ち主が困るとか、考えないの?」


 続けて僕が訊ねると、「考えない訳ないですよ」とあっけらかんと即答。


「でも、ビニール傘ってそういうものじゃないですかあ? 盗んで、盗まれて、そういうものでしょう?」


 ……そうだった。

 彼女はそういう人だった。特に悪びれず、罪悪感を感じるそぶりも見せず、周囲に、社会に迷惑をかける。忘れていた訳ではないが、油断していた。


 僕が返答に困り黙っていると、にこと今度は上機嫌そうに笑い、傘を大きく振った。

 

「そんな訳ないじゃないですか、冗談ですよお。もう、久しぶりなのに、先輩はつれないなあ」


 冗談ですよお、か。

 でも、それは『傘は盗まれるもの』ということに対してだ。特に罪悪感を感じることなく傘を盗んできたのは、嘘ではないのだろう。


「相変わらずだね、そういうの」


「先輩も、相変わらずそうで」


 彼女、宇佐雪子は、僕と同族である。

 死に、とらわれ、絡め取られている。

 生きながらにして、死ぬことしか考えられない。

 そういう人間だ。


 そして僕と真逆の人間である。僕は自殺願望が卑屈さやネガティヴに繋がっているのに対し、宇佐雪子は死にたいからこそ大胆に豪胆にふるまう――どうせいつでも死ねるのだから、人の視線なんて、罪なんて、痛くもかゆくもない。そういう人間だ。


 どころか彼女は、人に迷惑をかけることを正当な権利だと思っている節がある。死にたいと感じつつも生きてやってるんだから、それくらい許されるだろう。お前らはこの苦しみが分からないんだから、自分のことを許容しろ。そう考えている。


 一歩踏み違えれば死んでしまいそうな、一歩踏み出せば人として間違えてしまいそうな、危うさ。結果としてそれが、彼女の妖艶な魅力につながっているのだ――そして彼女は、二年前に最後に会った時より、ずっと魅力的になっていた。


「やっぱり、先輩もまだ死にたいみたいですね。あたしと同じだあ」


「……違うよ」


 その声は、自分でも驚くほどか細かった。


「なにが違うんですか? 先輩も、死にたいんでしょう?」


「雪子さんは――」


「ウサユキ」ぴしゃりと、雪子は僕の言葉に被せる。「ウサユキって呼んでくださいって、何度も言いましたよね。さん付けも嫌だって」


「……ウサユキは」


「はい」満足そうに、頷いた。


「ウサユキは人に迷惑をかけてる。死にたいを理由にして。でも、僕は違うよ。だから僕たちは同じじゃない……」


「うふ」


 ウサユキは笑って、ただ僕の目を見つめた。

 その言葉は、ただの願望だった。『どうせ死ぬから』を理由に勝手にふるまって取り返しのつかないことを平然とできる彼女と、ひっそりと世界に対して毒にも薬にもならずに生きている僕が、同じなはずないじゃないか。そういう願望。


 ――でも、僕だって迷惑をかけている。

 人に迷惑を掛けずに生きようとそれを貫いて来たのに、最期の最期でそれを厭わずに古賀さんを巻き込んだ。どうせ死ぬんだから、やりたいことをやってやろうと、古賀さんに嘘の告白をした。

 これは、ウサユキと全く同じ思考である。


 ウサユキはもう一度、「うふ」と笑った。


「迷惑をかけていない、ですかあ」


「……うん」


 やはり、か細い声だった。

 そして僕は、自分がずっとウサユキの目を見つめ返していたことに気が付いた。目を逸らさずに、律儀に彼女に応じていた。慌てて、彼女のローファーに視線を落とした。


「人に迷惑をかけずに生きている人はいない、とか、そういうつまらない一般論を語る気はないですし、先輩が今一体誰の顔を思い浮かべているかは分かりませんけど――」


 ウサユキは言葉を一旦そこで切ると、突然傘を開いたまま放り捨て、僕の傘の中へと潜り込んだ。そして中腰になり、俯いた僕の顔を覗き込む。


「ここに居るじゃないですか。先輩が多大なる迷惑をかけた女の子が」


 僕は思わず傘を取り落としそうになる――すかさずウサユキが、僕の手ごと両手で握り込むようにして傘を支えた。


「ね?」


 ウサユキに背中を押され、僕は足を動かした。途中振り返ると、ウサユキの捨てた傘に雨のしずくが溜まっている。ウサユキこの通りを抜けるまで一度も傘を振り返らなかった。

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