わたぬき
青色魚
『わたぬき』
朝、気持ちよく晴れた空の朝日を浴びて私は起き上がる。目の前には、まだ自分でも見慣れていない新しい制服。それを見て、改めて私は実感する。
「……私、今日から高校生なんだ」
呟いたその言葉が、その実感をより一層強いものにした。その感覚に思わず顔をほころばせながらも、私はベッドから起き上がり制服を手に取る。
──前から思ってたけど、なんで新品の制服って変なにおいがするんだろう。
手に取った瞬間鼻についたその特異なにおいに、私は心の中でそう呟く。それでもそんなものでは今日の私の上機嫌は崩れなかった。思わず好きなアーティストの曲を口ずさみながら、私は新しい制服を身に纏い、姿見を見た。
「……なんかぶかぶか? 思ってたより可愛くない……」
率直に出た感想はそんな情けないものであった。これでも今日から私は華の女子高生なんだけどな、なんて頬を膨らませていたら、階段の下からお母さんの声が聞こえてきた。
「
「はーい」
お母さんの言葉にそう生返事を返してから、私は部屋を出て階段を下りていった。今日から始まる、夢のような高校生活を思い浮かべながら。
──今日は始業式。ぜったい友達いっぱい作るんだ!
慣れない制服の模様を改めて見てから、私は心の中でそう決心した。
そう、これは私の物語だ。私がこの日、四月一日に経験した何でもない出来事の物語なのだ。
──電車通学ってなんかワクワクするなぁ。
眠い目をこすりながらもなんとか遅刻せずに済む電車に乗った私は、窓の外で流れゆく景色を流し見しながらそう思った。
私がこの四月から通うことになる高校──私立赤坂高校は私の家から電車で三十分ほどの場所に立っていた。私の中学は家から歩いて十分の地元だったから、電車に乗って学校に行くのはその時が初めてだった。
つまりは初めての電車通学。新鮮な感覚にワクワクしながらも、あることを思い出して私はため息を吐いた。
「……でも、四月一日から学校があるのはヒドイ。私、今日のことは楽しみにしていたのに」
そうして私が憂鬱になっていたのは、四月一日という年度の最初も最初の日に学校があることだけが原因じゃなかった。四月一日という日は、私にとって──いや、私を含めた
四月一日。その日が「嘘をついてもいい日」であることは有名なことだ。誰がそう呼び始めたかは知らないけど、今日のことはエイプリルフールというそうだ。そしてそのエイプリルフールの日には、「嘘をついていい日」には我が家はちょっとしたゲームをするのだ。
ゲームと言ってもそれは大したものでもない。要は「一番すごい嘘をついた人の勝ち」のゲームだ。すごいの判断基準もあいまいな、ざっくばらんとしたゲーム。それでも私はこのゲームが好きだった。だから私は毎年、お母さんや妹の葉月と熾烈な争いを繰り広げていた。
──去年は葉月の『駅前のスーパーで卵が半額だった』が優勝したんだっけ。
一年前の今日の出来事を思い出して、私は思わずクスリと笑った。去年のそのゲームの優勝者は葉月だった。優勝の要因となったのは大きく二つ。嘘の内容が特売という身近なものだったことと、いちばんその嘘に手が込んでいたからだった。
──まさか、スーパーのチラシまで偽装するとは思わないよね、フツー。
そう、葉月はなんと去年の四月一日のために前々から準備をして、私たちに偽のスーパーのチラシを見せたのだ。その偽物はよく見ればバレバレのものだったけれど、当時の私とお母さんは完全に騙されて駅前のスーパーまで走ることとなった。そんなわけでチラシの偽装という労力を評価したのか、去年のそのゲームのグランプリは妹だったのだ。
──でも、今年は負けないんだから。
その去年の結果から、私は今年のエイプリルフールはなんとしてもすごい嘘をつくと決めたのだった。そうして私が、お母さんも葉月もアッと驚くような嘘は何だろうかと頭を悩ませていると、あっという間に電車は目的の駅に着いていた。
「──長田町、長田町です。お降りの方は足元にお気を付けください」
「っ! やばい!」
車掌さんのアナウンスで今居る場所が下りるべき駅であることに気が付いた私は、慌てて席を立って出口へと走っていく。その途中、私の足が何かにつまずく。そうして身体のバランスを崩した私はやむなくその場に倒れこんで、それと同時に電車の扉は閉じていた。
「……あちゃー」
転んだ痛みよりも先に私の口から出たのは、なんとも情けないそんな言葉だった。再びゆっくりと動き始めた電車の中、私はゆっくりと立ち上がって自分に言い聞かせた。
──まぁ、降りられなかった以上仕方ない。
ちらりと左手に着いた腕時計を見ると、その針は集合時間の十分前を指していた。幸い高校は駅からは歩いてすぐだったけれど、それでもさっきのタイミングで電車を降りることが出来なかったのは確実にマズかった。
──遅刻確定、かぁ。不真面目な印象は作りたくないんだけどなぁ。
車窓から見える景色をぼんやりと眺めながらそうして私は落ち込んだ。けれど、すぐにそんなことをしているのはもったいないことに気が付いて、私は考えた。
──でも、入学式から遅刻ってことで、クラスの中で目立つことは出来るかも。
そうして無理やりに気分を上向きにした私は、そのあとすぐ次の駅で電車を降りて折り返しの電車に乗り、一直線に高校に向かった。
高校の最寄り駅についた時点でもう、集合時間はとうに過ぎていた。
──どうしよう、これ、入っていいのかな。
そうして入学式に遅れた私は、式が行われている体育館の中を見て悩んでいた。
──というか、人多いな……。中学とは大違いだ。
私がそうして式に入っていくのをためらっていたのは、思っていたよりもその入学式に人がたくさん来ていたからだった。私の中学はいいとこひと学年九十人、少ない年は八十人まで減ることもあった。それに比べて、その時私の前に立っていたのは三百人を超える私と同じ新入生だった。
──これ、全員私と同じ新入生なんだよね……?
その人数に圧倒されて、そんな当たり前のことにまで私は疑問を覚え始める。ましてや私は、その新入生の集団の中に一人として見知った顔はいなかった。中途半端に進学校な私の高校に同じ中学からの進学者はいない。それはつまり、私はこれから新たにこの三百人以上の人たちと何百回もはじめましてをしなければいけないということだった。
──やだなぁ、私、人見知りなのに。
そうして期待に満ち溢れていたはずの私の心が、少しずつ曇っていく。そうして自分の心がだんだんと暗くなっていくのにも気づかず、結局私は入口の方からずっと入学式を見ていた。
式は、私がその体育館に着いてから五十分ほどしたところで終わった。そうしてそこから教室に戻る流れに紛れ込んで、私は自分の教室を目指した。
教室に着いた私を待ち受けていたのは、既にグループ分けが完了しているクラスメイト達の様子であった。
──そりゃ、入学式も終わった後ならトーゼン友達もできてるよね。
私はそのことがそれほど衝撃的なわけではなかった。日程表を見るにまた取り決めとしての自己紹介は為されていないものの、そんなことをする前から高校生の友達作りなど始まっているものである。式で隣の席になった人に、あるいは偶然同じ趣味を持っていることが分かった相手に。勇気をもって話しかけていくことが学生の友達作りの一歩だった。
私が戸惑っていたのは、既にグループ分けが済んでいることではなかった。私はその教室に入るまで、グループ分けが済んでいたとしても、どこか話の合うところに混ぜてもらいに行こうと考えていた。
──それなのに。
私は戸惑っていた。周りで話すクラスメイトの話の内容が、全く頭に入ってきていないことに。
──なんで、なんで!? あんなに、あんなにこの時のために何を話そうか決めてたのに!
私は焦っていた。その原因は、元も子もないことであるが、焦っていることが原因だった。既に入学式の時点で出遅れた私は焦り、その結果私の頭にクラスメイトの話などは入ってきていなかった。
それに加えて、そんな中でも少しは耳に入ってくるクラスメイトの会話が、私が想定していたものとはだいぶ違っていたのだった。
「どこ住み? 町田? じゃあ実際神奈川県民じゃん」
「このゲームやってる? マジ、やってる!? フレンドなろうぜ!」
「気が早いけど、文化祭何をしたいかって決めてる? あ、
そうして周りで騒がしくしているクラスメイトの話は、私には全く理解が出来ないものだった。私は中学までは地元で過ごしていた。だから私の会話のバリエーションは、そのまんま中学校に居た時のもの、つまりは私は周りの会話についていくことが出来なかったのだ。
そうしてその自由時間、結局私は誰にも話しかけることが出来なかった。その教室に担任の先生が来て何かを話し始める十分前には、一人でいるのが辛くなって眠くもないのに寝たふりをしていた。
「それじゃあ最後に。これから一年間一緒に勉強する仲間に向けて、自己紹介をしていきましょう」
事務的な連絡がすべて済んだ後、中年の男性教師はそう言った。その担任の言葉を聞いて、私は最後のチャンスが来たことを察した。
──今日を逃せば、きっと完全にクラスの中でのグループは完成する。だったらもう、この自己紹介に賭けるしかない。
私は察していた。その時点ですでに自分がどれだけ友達作りが遅れているかを。そしてその遅れを取り戻せなかった場合、その後の高校生活がどんな悲惨なものになるかを。
──冗談じゃない。私は楽しい高校生活を送るんだ。そのためには、ここでつまずいてなんかいられない。
そうして意を決した私は、必死に戦略を練った。その時点でクラスのグループの原型は出来上がっていたが、それでも完成したわけではなかった。加えて、その時の私にとって、もはや一人でも話せる友達が出来ればもう良かったのだった。
──自己紹介、ここで一人でも友達を作るんだ。そのためには、自己紹介で話すことを考えなきゃ。
私が遅れを取り戻すために、一人でいいから友達を作るために、必要だったことは自己紹介の内容を考えに考え抜くことであった。自己紹介、半ば教師側から強制されてするそのアピール時間は、裏を返せば必ずクラス全員が見る自己アピールである。クラス内に友達を作る目的に関しては、自己紹介の内容がその成否を決定すると言っても過言ではなかった。
──幸い、私の苗字は「わ」行だ。こういうのは五十音って相場が決まってるから、内容を考える時間は十分にあるはず。
そう自分を言い聞かせ、私は必死にその内容を考えた。
──どうする? 当たり障りのない内容が一番リスクが少ないのは事実だけど、いまさらそんな普通な自己紹介をしても友達が出来るわけもない。
私は再び焦り始めていた。着慣れていない制服の素材の感触がうざったく、何度も脱ぎ捨ててしまいたい衝動に駆られた。それでも私は必死に考え続けた。
──だったら、何かネタになるような自己紹介。あまり得意じゃないけどやるしかない。無難なものとしては、前の人が話した内容に掛けるとか……。
そうして必死に戦略を練っていた私の耳に、非情な担任の声が届いた。
「じゃあ五十音順っていうのもつまらないですし、五十音の逆順にしましょうか」
私がその言葉の意味を理解したときには遅かった。のんきな顔をした担任は続けて、名簿を見ながら私の名前を読み上げた。
「それじゃあ、
「──ぁ」
その担任の言葉に、私は反論する術を持たなかった。その時点ですでに私に友達と言えるほどの仲間が居れば、あるいはその流れを自然に変え、五十音に自己紹介をするように仕向けることも不可能ではなかっただろう。しかし、まだ喋ったことのある相手が一人もいない当時の私がその抗議をしたところで、仮に抗議が通ったとしてもクラスメイトの反感を買うことは間違いなかった。
「……分かり、ました」
よって私はその担任の言葉にそう答え、彼に促されるまま教卓に向かう他に道は残されていなかった。そのことを頭で理解しつつも、自分の席からその自己紹介をする場所までの数メートルの間、私の頭はまるでショートしたかのように熱くなっていた。
──どうしよう。どうしよう。どうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。
けれど、当然のこととして、焦った頭で何か妙案が思い浮かぶはずもない。教卓に立ち、改めてクラスメイトの方を向いた私の頭には、さっきまで立てていたはずのその戦略などきれいさっぱり消え去っていた。
「──あ、えーっと……」
焦った私は、意味のないそれらの言葉を発して少しでも時間を稼ぐ。しかしそれも焼け石に水だった。一向に話し始めようとしない私を見て、クラスメイトの一部と担任の顔が少し曇り始める。
「えーっとですね、はい……」
また意味のない文字列を発して、私は必死に内容を考えようとする。でもそれがもう不可能なことは自分でも分かっていた。焦って慌てて、真っ白になった頭で何かを考えられるはずもない。
──あつい、あつい。きもちわるい。うざったい。
そうして熱くなってく私の身体には、新品の制服が汗で引っ付いていた。その感触の不快感を感じながら、私はとうとう、行きの電車に乗った時から薄々抱いていたその気持ちを、心の中でこぼした。
──帰りたい。
そうして私が一向に自己紹介をしようとしないのを見かねた担任が、少しの苛立ちを露わにしつつもこちらに助け舟を出した。
「あのー、
しかし、その担任の一言は私には死刑宣告に等しかった。ただでさえ見知った顔もなく、自己紹介の時間を無駄に浪費する私はクラスにとっての厄介者であった。担任がその始末に困り介入し出すなど、私が厄介者である事実をより鮮明にするだけのものであった。
「……いえ、大丈夫です。きちんと、自分で話します」
私は必死に涙をこらえ、担任の申し出を断った。そして今にも泣きだしてしまいそうなその感情を必死に抑えて、小さくか細い声で言い切った。
「
何とかそう言い切ってから、私は熱い身体を何とか動かして自分の席に戻っていった。その道中、クラスメイトの顔など見ることは出来なかった。彼らがどんな目で私を見ているか、薄々察しつつもそれを知ることが怖かったのだった。
「──はい、というわけで
担任が必死に場の空気を戻そうとそう言ったのを、私はどこか意識の遠くで聞いていた。その担任の言葉に続いて私の自己紹介に対するまばらな拍手が起こった後、次の生徒が自己紹介を始めていった。
「うーっす、初めまして、
そうして次の人が話し始め、その自己紹介の内容にクラスが盛り上がっているのをよそに、先ほどまで熱くなっていたのが嘘のように私の身体は冷え切っていた。それと同時に頭に上っていた血もおりてきた私は、先ほどまでの自分の挙動を鑑みて小さく呟いた。
「……もうやだ。死にたい」
その呟きすら誰の耳にも届かず、そうして私の高校初日は幕を閉じたのだった。
「ただいま」
重い身体を引きずるようにして家に帰りついた私は、ドアを開けてから静かにそう言った。
「おかえり~お疲れ様! 入学式、どうだった?」
インターホンの音に反応して玄関まで下りてきたお母さんが、何の気なしに私にそう尋ねた。その純粋な言葉に、私は必死に表情を取り繕って答えた。
「……別に。特に何もなくて、フツーだったよ」
私は何もその時お母さんに嘘をつこうとしたわけではなかった。しかし結果として、私が入学式に遅刻したことを隠したことになったのは事実だった。お母さんに用事があって私の入学式に来ることが出来なかったことに、私はその時密かに感謝した。
私の返答を聞いて、続けてお母さんは、何の含みもない顔で尋ねた。
「あっそ。それで、友達は出来た?」
そのお母さんの問いかけに、私はすぐに答えることが出来なかった。私は一瞬お母さんのその言葉の前に泣き崩れ、今日起こったこと全てを打ち明けてしまいたい衝動に駆られた。しかし、その衝動を何とかこらえて、私は考えた。
──どうしよう。嘘をつくのは良くないけど、本当のことを話せば余計な心配をかけちゃうし……。
そうして考えを巡らせた私は、その瞬間気が付いた。今日が何月何日であるかということに。
──ああ、そっか。
その事実に気が付いた瞬間、私の心の中のどこかがストンと落ちた気がした。
──今日は「嘘をついていい日」だもんね。
そうして意を決した私は、また自分の表情を取り繕って、母に向かってこう
「……うん、勿論だよ。夕飯の時に詳しく話すね」
そう言い切ってから、その表情を崩さないまま私は靴を脱ぎ、三階にある自分の部屋に戻った。朝には確かに感じていた漠然とした胸の高鳴りは、もう私の中にはなかった。力なくベッドに倒れた私の頭の中に残っていたのは、たった一つの後悔だけであった。
「……こんなつまらない嘘、つくつもりなかったのになぁ」
そう呟きながら私は、行きの電車で確かに自分が「今日はどんな嘘をつこうか」と考えを巡らせていたことを思い出し、静かに涙を流した。
四月にしては冷たすぎる風が、窓を通り抜けて私の身体に当たって霧散した。そこから見える桜の木を見る限り、花が咲くのはまだ先のことのようだ。
わたぬき 青色魚 @bluefish_hhs
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