第53話『風立ちぬ・いざ生きめやも』

乙女と栞と小姫山・53

『風立ちぬ・いざ生きめやも』    






 

 男は暗い決心をした……こいつのせいだ。


 そして、これは千載一遇のチャンスだ。


「ほんとうにありがとう。新曲発売になったら、よろしくね!」

 そう言って、栞たちメンバーはバスに乗り込もうとした。

「すみません。せっかくだから記念写真撮ってもらっていいですか!?」


 ハーーーーイ!


 元気のいい声がいっせいにした。ここまでは織り込み済みである。いわばカーテンコール。


 まずは、メンバーと生徒たちがグランドに集まって集合写真。それからは気に入ったメンバーと生徒たちで写真の撮りっこ。

「どうも、ありがとう。がんばってくださいね!」

 そんな言葉を五度ほど聞いて、わずかの間栞は一人になった。

「ごめん、鈴木君」

 めずらしく苗字で呼ばれて、笑顔で栞は振り返った。


 その直後、栞は、顔と、思わず庇った右手に激痛を感じた。

「キャー!!」

 痛さのあまり、栞は地面を転がり回った。左目は見えない。やっと庇った右目には、自分のコスから白煙が上がり、右手が焼けただれているのが分かった。そして、白衣にビーカーを持って笑っている、その男の姿が。

「バケツの水!」

 スタッフで一番機敏な金子さんが叫び、三人ほどに頭から水をかけられた。その間に、他のスタッフが、ホースで水をかけ続けてくれた。

「その男捕まえて! 救急車呼んで、警察も! これは硫酸だ、とにかく水をかけ続けろ!」

 金子さんは、そう言いながら自分もホースの水に打たれながら、コスを脱がせてくれた。

「栞、右の目みえるか!?」

「……はい」

 そう返事して栞は気を失った。


 気がつくと、時間が止まっていた……走り回るスタッフ、パニックになるメンバーや生徒たち。

 救急車が来たようで、救急隊員の人が、開き掛かけたドアから半身を覗かせている。

 パトカーの到着が一瞬早かったようで、白衣の男は警官によって拘束されていた。


 その男は……旧担任の中谷だった。


 噂では、教育センターでの研修が終わり、某校で、指導教官がついて現場での研修に入っていると聞いていた。それが、まさか、この口縄坂高校だったとは。


 中谷は、憎しみの目で栞を見ていた。栞は、思わず顔を背けた。本当は逃げ出したかったんだけど、金子さんが、硫酸のついたコスを引きちぎっているところで、それが、カチカチになっていて身を動かすこともできない。時間が止まるって、こういうことなんだと、妙に納得しかけたとき、フッと体が自由になった。

「イテ!」

 勢いでズッコケた栞はオデコを地面に打ちつけた。


「ごめんなさい先輩……」


 数メートル先に、さくやがションボリと立っていた。

「さくや、喋れるの……って、さくやだけ、どうして動いているの?」


「時間を止めたのは、わたしなんです」

「え……」

「もう少し早く気づいていたら、こうなる前に止められたんですけど。マヌケですみません」

「さくや……」


 そのとき、ピンクのワンピースを着た女の人が近づいてきた。


「あ、さくやのお姉さん……」

「ごめんなさいね、栞さん。とりあえず、そのヤケドと服をなんとかしましょう」


 お姉さんが、弧を描くように手を回すと、ヤケドも服ももとに戻った。


「これは……」

「わたしは、学校の近くの神社。そこの主、石長比売(イワナガヒメ)です。この子は妹の木花咲耶姫(コノハナノサクヤヒメ)です。この春に乙女先生が、お参りにこられ、その願いが本物であることに感動したんです。そして、わたしは希望を、サクヤは憧れをもち、人間として小姫山高校に入ったんです」

「先輩や、乙女先生のおかげで、とても楽しい高校生活が送れました。本当にありがとう」

 さくやの目から涙がこぼれた。

「時間を止めるなんて、荒技をやったので、もうサクヤは人間ではいられません。小姫山ももう少し見届けたかったんですけど、もう大丈夫。校長先生や乙女先生がいます。学校はシステムじゃない、人です。だから、もう大丈夫……じゃ、少し時間を巻き戻して、わたしたちはこれで」


 お姉さんとさくやが寄り添った。そして時間が巻き戻された。


「ウ、ウワー! アチチチ!」


 オッサンの叫び声がした。


 ビーカーの破片が散らばり白い煙と刺激臭がした。どうやら白衣のオッサンが、硫酸かなにかの劇薬をビーカーに入れて、転んだようである。幸い薬液が飛び散った方には人がいなく、コンクリートを焼いて、飛沫を浴びた中谷が顔や手に少しヤケドを負ったようで、大急ぎで水道に走っていった。

「おーい、MNBはバスに乗って!」

 金子さんに促され、メンバーは別れを惜しみながらバスに乗った。

「だれか、残ってませんか……?」

 栞は思わず声に出した。

「みんな、隣近所抜けてるのいないか?」

 そう言って、金子さんは二号車も確認に行った。

「OK、みんな揃ってる!」

 バスは、口縄坂高校のみんなに見送られて校門を出た。


 栞は、横に座っている七菜に軽い違和感を感じた。同じユニットの仲間なんだから、そこに居たのが七菜でおかしくはない。

「七菜さん、来るときもこの席でしたっけ?」

「え、たぶん……どうかした?」

「ううん、なんでも……」


 その日から、MNBのメンバーからも、希望ヶ丘高校の生徒名簿からも一人の名前が消えた。そして、その違和感は、栞の心に微かに残っただけで、それも、いつしかおぼろになっていく。


「風たちぬ……か、そろそろ夏かな」


 そう呟いて坂道を曲がった。


 校門の前には登校指導の乙女先生が叩き売りのように「おはよう!」を連呼している。


 小姫山の、いつもの朝が始まる……。



 乙女と栞と小姫山 第一部 完



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乙女と栞と小姫山 武者走走九郎or大橋むつお @magaki018

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